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お時間の空いた時などにお読み頂けるオンライン小説を扱っている、個人創作サイトです。

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スタジオ『チセ』は、オンライン小説サイトです。
短編から長編のお話で、お時間の空いた時にお読み頂けます。
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<スタジオ『チセ』>
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<久遠>
ホームページアドレス
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クマさんの給食袋

 この世界には、神様がいるんだよ。
 その神様は、とても優しくて、温かくて、まるでお母さんみたいな。
 ほら、みんなの廻りにも、神様が――。

♪ ♪ ♪

 迷える仔羊は、何処に在ろうか。何処にいようか。
 眠れぬ仔羊は、何処に在ろうか。何処にいようか。

♪ ♪ ♪

 その日も、少女は口ずさんでいた。

 誰もいなくなった放課後の音楽室は、そんなに大きくはないが、一年生の少女にとっては十分過ぎる広さを持っていた。グランドピアノも備えられており、壁には大きな時計も掛けてある。
 少女は、大きなピアノの前で歌っていた。
 眠れ、眠れ、母の胸に。眠れ、眠れ、母の手に――。
 少女の年齢は七歳で小学校一年生。肩まで届く長い髪を後ろで結んでいる。
 少女は、ずっと、ずっと飽きるということを知らないかのように歌い続けていた。
「まだ、ここにいたの? ツカサちゃん、もうすぐ校門閉まっちゃうよ!?」
 言って、同級生の真里がツカサの名を呼んだ。
「うん。ごめんね」
「早く帰ろう?」
 ツカサは、帰りの準備を整えると音楽室を後にした。
「どうして、いつも音楽室にいるの?」
「――いると思うの」
「何がいるの?」
「お母さんだよっ」
 ツカサは、屈託のない笑みを浮かべた。
 お母さんが音楽室にいる。そんな気がするから。
 その母親は、ツカサが小学校に進学して間もない頃に死んでしまった。
 交通事故だった。
 見通しの良い道路で、横断歩道を渡っている時に車に轢かれた。
 即死だったと言われている。治療を施すまでもなかったらしい。
 生前、母親はツカサの通う学校で教師をしていた。そこで、低学年のクラスを受け持っていた。担当教科は音楽で、低学年から高学年に至るまで、慕われていた。
「あれから……半年が経ったね……」
 最初、母親の死を理解できなかったツカサ。
 学校から帰って「ただいま」と言っても、「お帰りなさい」という言葉は返ってこない。
 リビングや部屋の中で、「お母さん」と呼んでも反応がない。
 理解できなかったから、涙を流すこともなかった。
 けれど、半年経った今なら、痛いぐらいに理解できる。
 美味しいご飯を作ってくれることも、勉強を教えてくれることも、もうないんだ。
「何で歌ってるの?」
「お母さんが好きだから、歌ってるの」
 お母さんは、音楽を担当していたこともあって、いつも口ずさんでいた。
 特に決まったメロディはなかったけれど、中でも、子守唄が好きで、気付けば何かしら口ずさむ。
 ピアノの音色に乗せながら、眠れ、眠れ、と。
 歌っていると、口ずさんでいると、そんなお母さんを想い出せる。
 それ故に今日も歌う。メロディを口ずさむ。
 それがお母さんを感じる唯一のものだから――。

♪ ♪ ♪

 夜。眠れずにツカサが一人で庭先に出ていた時のことだった。
 お母さんと錯覚するほどの優しい声がどこからか響いてくる。
「迷える仔羊は、何処に在ろうか――」
 目の前に、突如としてふわっと舞い降りてきた女の人。
 ほのかに優しい薫りを漂わせ、とても温かい気持ちにさせてくれる。
「お姉ちゃん……だーれ?」
「妾の姿が見えるのかえ?」
「……うん」
「妾は――カムイ。願いごとは在らぬか?」
「願いごと……?」
「妾は神。願いを叶える為に舞い降りた」
 女の人、カムイはとても綺麗な人だった。
 まるで、死んでしまったお母さんを見ているような感じだった。
 だから、警戒心を持つこともなかったし、恐怖することもなかった。
「お母さんに……会いたいなぁ」
 自然と願いが零れた。
 お母さんに一度だけで良いから会いたい。
「母君に会いたいのじゃな?」
「だけど、無理だよね。お母さん、死んじゃったもん……」
「否。妾に叶えられぬ願いなど、在りはせぬ」
「会わせて……くれるの?」
「但し……」とカムイは条件を出した。
 それは、一つの対価だった。
「ひと月の間、声を出すことを禁ずる。歌うことも、嘆くことも」
 ツカサが「どういう意味?」と首を傾げると、
「妾以外の者と喋ることをしては為らぬ、ということじゃ」
 とカムイは答えた。
「約束……?」
「妾と御主との約束じゃ。その約束を守り通した暁には、母君に会わせましょう」
「じゃあ、約束する」
「良かろう。ツカサよ、床に就きなさい」
 カムイがパチッと扇子を鳴らすと、ツカサは部屋のベッドの上で深い眠りに落ちていた。
 翌朝、ツカサは昨晩にあったことを父親に話そうとした。
 が、声が出ない。無理に出そうとすると、咽てしまう。
(あれ……声が出ない……)
 一生懸命に声を出そうとしても出ない。
 それは、カムイがかけた一種の制約――呪いだった。
「どうした? ツカサ」
「…………ッ」
 どれだけ喋ろうとしても、思い通りに声が出てこない。
(約束の……所為なのかな……)
 ツカサは、夜の出来事を思い出していた。
 カムイという綺麗な女の人が来て、お母さんに会わせてくれる代わりに、喋っては駄目と言ったこと。歌ったり、口ずさんだり、泣いたり、笑ったり、それもしちゃいけないこと。
 学校。クラスメイトが各々で挨拶をする中、ツカサだけは無言の反応を示した。挨拶をしたくてもできないからだ。その為、表情と動作だけで示すしかない。
 授業中、名前を呼ばれても返事ができず、答えたくても答えられない。
「ツカサちゃん、どうして今日は喋らないの?」
 真里がひどく心配している。
 神様との約束なの、と言いたい。言いたいけれど、声が出ない。
 ツカサは、筆談をするように、紙に気持ちを書いた。
 お母さんに会わせてくれる約束を神様としたこと。その代わり、喋ることができないこと。
「ツカサちゃんは、その……喋っちゃいけないの?」
 ツカサは首を縦に振った。
「そっかぁ」
「ごめんね」と紙に書いた。
「ううん。約束なら仕方ないよ」
 また、夜が来た。
 ツカサは、カムイに会いたい一心で庭先にいた。
「眠れぬ仔羊――」
 と、カムイは姿を現した。
 それを見て、「また会えた」とツカサは喜んだ。
「ツカサ、何故に母君に会いたいのじゃ?」
「お母さんに……謝りたいの……」
「謝るとは?」
「あのね、私ね……お母さんに酷いこと言っちゃったの……。好きなのに、大嫌いって……」
 事故に遭う前日に、ツカサは母親に対して大嫌いだと言ってしまった。
 その日、二人は些細なことで喧嘩をしてしまう。学校で使う給食袋のことで、口論をしてしまっていた。その際に、ツカサは「お母さんなんて、大嫌い」と口を滑らせてしまったのだ。
「それでね、謝りたいの。本当は、大好きなんだよって……」
「然様か」
「ねぇ神様」
「何じゃ?」
「いつ、会わせてくれるの?」
 カムイは、左の袖で口許を隠すと、
「近い世に、会わせましょう」
 と言った。
「近い世って、いつ?」
「この夏が終わる頃じゃ」
 ツカサは、それを聞いて、早く夏が終われば良いのにと思った。
 そうすれば、お母さんに会えるから。
 会って、謝りたい。会って、色々なお話しをしたい。
「ツカサ、御主は――」
 何かを言いかけたところで、
「こんな時間に何してるんだ?」
 父親が、ツカサの元にやって来る。
「あのね、神様とお話しをしてたの」と言おうとしたが、
「……っ」
 喉が詰まったように声が出ない。
「ツカサ、昨日から変だぞ?」
「…………」
「何か困ってることがあるのか? お父さんに相談してみなさい」
 困ってることも、相談したいこともない。
 ただ、お母さんに会う為には、喋っちゃいけないって言われてるの。
「ごめんなさい」と言うように、頭を垂れた。
 然し、父親はツカサの本心が分からなかった。何も話さないから、理解もできなかった。
 次の日になっても、そのまた次の日になっても、意思表示としての言葉を話さないツカサを見て、父親の我慢は限界に達してしまった。
 朝の挨拶も、眠る前の挨拶も、全てを無言でしてしまうツカサに、怒りを露にしてしまう。
「何なんだ! お父さんに問題があるなら、そう言ってくれ!」
 突然、声を荒げる父親に、ツカサの身体がビクついた。
「!?」
「あ……すまん。悪い……」
「……」
「ツカサ、どうして何も話してくれないんだ? 話さないと分からないだろ……?」
「…………」
 ランドセルの中からノートを一冊取り出すと、そこに文字を書いていく。
 神様のこと、お願いのこと、お母さんのこと。
 拙い字で、懸命に気持ちを書く。
「これは……お前、本気で言ってるのか?」
 コクンと首を振る。
「バカバカしい。神様なんている訳ないだろ……。いるなら、お母さんは死ななかった……」
 仮に神様がいたとするなら、こんな理不尽な運命を強いることはしないはずだ。
 それこそ、ツカサの母親で、自分の妻を殺すこともなかった。
「良いか、ツカサ。お母さんには二度と会えないんだ。こんなおまじないをしても、意味なんてないんだよ」
 おまじないとは、言葉を変えれば「お呪い」であり、すればするほど、その呪いを強めてしまう。幸福になるどころか、不幸にでさえなってしまい兼ねない。
「お母さんは死んだ。忘れろとは言わないが、諦めてくれ……」
 父親は、深く哀しんで、軽く涙目にもなった。
 それを見て、ツカサも哀しんだ。
「さ、さあ。学校に行きなさい」
 ツカサは、涙を拭うと自宅を後にした。
 いつもなら、母親と一緒だった通学路も、今では独りぼっちだ。
(お母さん……お母さんに会いたいよ……)
 淡く切ない願いは、夏が終わるまで叶わない。
 溢れ出る沢山の、沢山のお母さんへの愛情と沢山の気持ち。
 お母さん。私は、此処にいるんだよ?
 お母さんに会うには、私も――死なないといけないのかな。
 死んじゃえば、すぐにでも会いに行ける?
 お母さん――。

♪ ♪ ♪

 あの日――大喧嘩してまった日のこと。
 半年ほど前の、まだ夏日には遠かった、梅雨空のこと。

『嫌……。この給食袋じゃ嫌……』
『ツカサ、我儘言わないの』
 母親の声。
『でも……こんなの嫌……』
『じゃあ、どうするの? 給食袋を使わないの?』
『……それも、嫌……』
『嫌だ、嫌だ、ばっかり……』
『だって、クマさんのじゃないと、嫌なんだもん!』
 母親の手に握られている給食袋は、クマさんではなく、ハチさんのだった。
 ツカサは、昆虫が大の苦手で、それがイラストであっても嫌悪感を示す。
『これしかないの……。ハチさんだって可愛いでしょう?』
『可愛くない。虫さんは、嫌なの』
『もう……ならどうするの!? 今更、買いにも行けないでしょ!?』
『ハチさんだから、学校も行きたくない……っ』
『ツカサ!』
『いーやー……嫌だ!』
 母親は、教育者としても、一人の親としても、
『いい加減にしなさい! 小学生にもなって迷惑ばかりかけないの!』
 と声を大にして咎めてしまう。
 ツカサは、涙目になりながら、『バカ……!』と言った上で、
『お母さんなんて、大嫌い……!』
 と口を滑らせてしまう。
『そう。なら、お母さん、もう知らないからね!?』
『……っ』
 気持ちを違えたまま翌日になると、母親はツカサを置いて先に学校へと行ってしまった。
 程なくしてツカサがリビングにやって来る。
『あれ……? お母さんは……?』
『ツカサ、お母さんは先に学校へ行ったぞ?』
『……』
『今日は、お父さんが送ってくから……』
『…………うん』
 準備を整えていた時、自宅のリビングに備えられている電話が鳴った。
『もしもし――え!?』
 父親は、受話器を思わず落としてしまった。
 今、何と言われたのか。なんと告げられたのか。
『……今日は、学校休みなさい』
『どうしてー?』
『すぐ病院に行くぞ。お母さんが、事故に遭った……』
『事故って、なーに?』
『と、兎に角、病院だ……』
 父親に強引に腕を引っ張られるような形で最寄りの病院に向かった。
 集中治療室を経て、遺体安置所。
 そこは、とても薄暗く、大袈裟と云わんばかりの静寂を保っていた。
 ツカサは、そこが遺体安置所だとは理解できない。
『お母さん……? ねぇ、お父さん。どうして、お母さんが寝てるの?』
 その場で立ち尽くしている父親を他所に、ツカサは母親の亡骸に触れていた。
 氷を触っているのかと錯覚するほどに冷たい。体温を感じられない。
 何度、『お母さん、起きて』と身体を揺すっても、起き上がることはない。
『お母さん……何で起きないの? 何で冷たいの?』
『ツカサ、お母さんはね……もう、起きないんだよ……』
『何でー?』
 下唇を噛むように、
『――死んだからだよ』
 とあまりにも哀しい現実を父親は告げた。
『……え!? でも、お母さん、此処にいるよ?』
『お母さんは……母さんは……もう……』
 やがて、父親は子供が泣きじゃくるように泣いた。
 それに釣られるように、ツカサも泣きたくないのに泣いた。
 涙は枯れることなく――数日後には、お葬式や告別式を終えた。
 大きな仏壇には、そんな母親の遺影が納まった。
 その遺影を見る度に、ツカサは思い返す。
 クマさんとか、ハチさんは嫌だとか、そんな我儘を言わなければ、と。
 言わなければ、喧嘩なんてしなければ、死ななくて済んだのではないか。
『お母さん……どうして、死んじゃったの?』
 良い子供にしてるから、良い子供でいるから。
 大嫌いって言ったのも、あれは嘘だったんだよ?
 本当は、本当は大好きなんだよ?
 遺影は、何も語らない。何も感じさせず、何も話さない。
 私は此処にいるのに。
『会いたいよ……お母さん……』
 会って、ごめんなさい。そう伝えたい。
 独りぼっちにしないで、また一緒に学校へ行こうよ。
 ご飯も残さないから。好き嫌いを言わないで食べるから。
 夕食の時間、お母さんの分だけがなかった。
『不味いなぁ。母さ――』
 父親は言いかけて、その後に続く言葉を止めた。
 言葉にしてしまえば、声に出してしまえば、涙が止まらなくなるから。
 その日から、ツカサは就寝前に庭先で考えるようになった。
 お母さんに会うには、どうすれば良いのかな。
 お母さんに謝るには、どうすれば良いのかな。
 一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月と時間だけが流れ、いつしか人前で泣かなくなった。
 泣いてしまえば、お母さんが心配するかも知れないと、そう思ったからだ。
 そんな夏も深まる頃、ツカサは生まれて初めて、神様というモノに出会った。
 神様は、懐かしい薫りをしていて、お母さんのように綺麗で、声も透き通っていて。
 その神様と、お母さんに会う為の約束を交わした。
 お母さん、待っててね。
 神様との約束を守るから、そうしたら、会おうね。

♪ ♪ ♪

 人は、どんな切欠で死んでしまうか分からない。
 転んだ拍子に、事故に遭った時に、簡単に命を落としてしまう。
 遺された人は、とても哀しくて、苦しくて、辛くて、しんどくなる。
 お母さんが死んじゃった時には哀しくなくて、死んじゃった後で哀しくなった。
 お父さんと一緒に、ずっと、ずっと泣いた。
 泣きたくないのに、涙が止まらなかった。
 泣き止んでも、ちょっとしたことでまた涙が出てくる。
 だから、心が壊れてしまったのだと思った。
 だって、壊れてなかったら、涙も止まるはずだから。
 壊れてしまった蛇口のように、溢れ出してる。

 会いたいと思うこと。哀しいと思うこと。
 お母さんがいなくなって、沢山の時間が流れたよ。
 お母さんがいなくなって、部屋が広く感じるようになったよ。
 毎日のご飯も美味しくなくて、毎日の学校も楽しくないの。
 お母さんの声が聴きたい。
 私の名前を呼んで欲しい。
 また、一緒に歌を口ずさみたい。
 教えて貰ってない歌が、沢山あるから。
 大好きだったピアノも、弾けるようになりたい。
 お父さんも淋しそうにしているの。
 お母さん、お母さん――。

♪ ♪ ♪

 九月になって二週間が経った。
 ツカサが母親を失くして長い時間が流れた。
 冗談を言い合うことも、他愛無い会話をすることもない。
 朝。母親のいない食卓を、ツカサは父親と二人だけで囲んでいた。
 特に味わうということをせずに、目の前の食事を口に運んでいく。
「な、なぁツカサ」
「……?」
「今日の卵焼き、お父さんなりに頑張ったけど、どうだ?」
「……甘くない」と言うように、首を左右に振った。
「美味しくないか?」
「……」
 お母さんの作る卵焼きは、とても甘くて美味しかった。
 でも、お父さんの作る卵焼きは、塩っ辛い。
「じゃあ、明日はもっと美味しく作るよ」
 同じように首を左右に振った。
「そんな……明日も父さん頑張るから、な?」
「……食べたくない」と訴えるように、首を左右に振る。
「……なら、別の――」
「ごちそうさま……」無言で食事を終えた。
 ツカサは、この日も朝食を半分以上残して学校へ行く準備をした。
 独りぼっちの通学路には、母親の面影を感じても、姿を見ることはない。
 こんな日々が、半年以上も続いている。
 泣かないと決めたのに、面影を感じる度に涙が薄っすらと浮かぶ。
 あの日、仲直りをすることなく、お母さんと別れてしまった。
 仲直りしたかったのに、ごめんなさいと伝えたかったのに。
(……お母さん……)
 晴天にも関わらず、どこか暗い通学路に、母親を想う気持ちが零れた。
 お母さんと別れて、次に会った時は冷たくなってた。
 それが、骨壷という入れ物に収まるぐらいに小さく、軽くもなった。
 それを見て、人は死んじゃうと軽くなるのだと、そう思った。
 その骨壷は、今もお部屋のお仏壇のところにある。
 お母さんの写真は、見る度にいつも笑ってる。
 哀しくなんてない、そう言ってるように笑ってる。
 私は、泣きたいぐらいに哀しいのに、お母さんは笑ってる。
 どうして、笑ってるの?
 どうして、死んじゃったの?
 ひらがなが書けるようになったのに。
 足し算も引き算も、できるようになったのに。
 お母さんみたいになりたくて、お勉強だって頑張った。
 お母さん、知ってるよね。
 もうすぐ、私のお誕生日なんだよ?
 九月の二十三日、秋分の日。
 私の、八歳のお誕生日。
 お母さん、前に言ってたよね。お誕生日になったら、動物園に行こうって。
 死んじゃったら動物園に行けないよ?
 動物園でお猿さんに、象さんに、いっぱい見ようって。
 約束したのに。
 約束って、守らないと駄目なんだよ。
 破ったら、針千本なんだよ。
 涙がポツリ、ひとしずく。
 学校の下駄箱。
 お母さんの場所だけ、今も、これからも空っぽ。
 職員室の机。
 お母さんのところだけお花が飾ってある。
 お母さんの担当してたクラス。
 新しい先生が来るまで、他の先生が代わりにしてる。
 でも、私の中では、新しい先生に来て欲しくないと思ってる。
 だって、お母さんが本当に消えちゃいそうで、怖いから。
「――ツカサ」
「……誰?」と反応するように、後ろに振り返った。
「ツカサ、どうして何にも話さないんだ?」
 クラスメイトの男の子が言った。
「…………」
「黙ってちゃ、分からないだろー?」
 ツカサは、ランドセルの中からノートを取り出して、文字を書いていく。
「お母さんに会わせてくれるって、神様との約束なの」と伝えた。
 その約束の為にひと月だけ誰ともお話してはいけない。
「お前、バカじゃねーの」
 言って、男の子は嘲笑った。
「お前の母ちゃん、死んだんだろ? 会える訳ねーじゃん」
「会えるもん!」と訴えるよう、男の子を突き飛ばした。
「痛っ……。何するんだ!?」
 男の子は、ツカサに掴みかかった。
 髪の毛を引っ張ったり、服を引っ張ったり。それでも、ツカサは怯まなかった。
「会えるんだ!」と無言のまま抵抗をする。
 程なく、それを見ていた生徒が先生を呼ぶと、すぐに喧嘩を止めた。
「二人とも、何してるの!?」
「知るかよ。こいつが、突き飛ばすから……っ」
「ツカサちゃん。それは、本当なの!?」
 ツカサは、先生の問いにも、
「…………」
 何も答えなかった。
 けれど、ツカサは泣いていた。
 哀しくて泣いたんじゃない。悔しかったから。
 お母さんに会えないっていう男の子に、何も言えなかったことが悔しい。
 神様だっているのに、約束だってしたのに。
 喋れなくなったのに。
 男の子との喧嘩は、すぐに父親にも知れ渡った。
「ツカサ、どうして突き飛ばしたりしたんだ?」
「…………」
 ツカサは、ノートに綴った。
 お母さんに会える訳ないと言われたから、それが悔しかったから。
「また……それか」
 父親は、数秒だけ黙ったあと、
「いい加減にしないか!」
 と言った。
「お母さんは、死んでしまったんだ。もう、会えないんだよ」
 ツカサは、首を左右に振る。
「お母さんのこと、残念だと思うが、割り切ってくれ」
 再三に亘る父親の説得も、ツカサは聞かなかった。
 何度も、何度も、首を左右に振り続けた。
 父親は、ツカサの両肩を掴んで、尚も訴えた。
 お母さんには会えない。お母さんは死んだ。
 神様だとか、約束だとか、そんなのもただの幻想だ、と。
「……っ」
 ツカサは、それでも父親の言うことを否定した。お母さんには会える。神様だっているんだ。
 約束だってある。
「この……我儘を言うんじゃない!」
 父親は、ツカサの頬をビンタしようとした。
 然し、ツカサは、視線を外さなかった。
 ジッと、父親の瞳を見つめている。
「……くそ……っ」
 父親は、ビンタできなかった。
 してしまえば、余計に哀しませてしまうと思ったから。
 何より、お母さんの存在そのものを否定してしまいそうで、嫌だったから。
 心のどこかで、ひょっとしたら、という思いが払拭し切れずに残っている。
「ごめんなぁ。ツカサ……ごめんなぁ」
 父親は、大粒の涙を流して、ツカサを胸に抱き寄せた。
 父親もまた、哀しかったのだ。辛かったのだ。死後も母を想う我が子を見る度に、胸がはち切れそうだった。
 ツカサは、泣いた。何度も涙を拭っては、何度も涙を流した。
 人前で泣かないと決めたのに、やっぱり泣いてしまう。
 お母さんが好きだった。
 それは、お父さんも同じだ。
 それを思うと、涙がより出てくるようで。
 今日も、明日も。
 夢を見た。
 お母さんとお父さんと動物園に行ってる夢。
 ウサギさん、お馬さん、お猿さん、象さん、他の沢山の動物を見た。
 動物の形の乗り物にも乗った。写真も沢山撮った。
 お昼には、ピクニックのようにお母さんの手作りのお弁当を食べて。
 それで、また動物を見て回った。
 あっという間だった。
 楽しい時間は、過ぎるのが早いんだね。
 もっと、いっぱい動物を見たかったのに。いっぱいお母さんを感じたかったのに。
 夢の中、お母さんは言った。
『また、来ようね』
『うん。今度はいつ?』
『誕生日になったらねぇ』
『うんっ』
 それは、お母さんとの約束だった。
 だから、お誕生日が早く来れば良いと思った。
 明日はそんなお誕生日なのに、動物園に行く約束だったのに。
 二十三日、秋分の日。八歳の誕生日。
「ツカサ、ケーキを買いに行こうか」
 夕方、父親に連れられて最寄りのケーキショップに行った。
 そこで、二つの苺のケーキセットを買った。
 その帰り、公園の前を通った。
 公園では、祭日なのもあって、家族で遊んでいる光景が映る。
 楽しそうに、嬉しそうに、幸せそうに。
「……公園、寄ってくか?」
「……」
 ツカサは、無言のまま歩き出した。今は、公園に寄りたくない。そう抵抗するように。
 自宅。リビングにあるテーブルに、ケーキセットを広げた。
 お祝いされているのは私で、お祝いしてくれるのがお父さん。
 そこに、お母さんはいない。
「八歳の誕生日、おめでとう。ツカサ」
 嬉しいはずなのに、心から喜べない。
「今度、来週になるけど、日曜日に動物園に行こうか」
「…………」
「ツカサは、動物園が好きだったもんなぁ」
 その後も、お父さんは私を喜ばそうと色々なことを話してくれた。
 それなのに、その沢山のことが聞こえなかった。
 本当は、喜びを表現するべきなのだろうか。
 それとも――。

♪ ♪ ♪

 その日も、ツカサは誰もいなくなった放課後に、音楽室で虚ろっていた。
 この音楽室には、お母さんの面影を感じる。お母さんを感じられる。
(お母さん……もうすぐ夏も終わるね)
 心の中で囁く。
 九月の終わり。夏の終わり。
 このひと月、ツカサはカムイとの約束を破らなかった。破れなかった。
 破ってしまえば、お母さんに会えなくなるという思いから、守り通した。
 それなのに。
(神様……あれから会ってないなぁ)
 会わなくなってから、それまで喋れなかったのが喋れるようになった。
 歌を口ずさむことも、友達とお話しをすることも、何だってできる。
「あ、ツカサちゃん!」
「真里ちゃん」
「帰ろ? そろそろ時間も晩くなっちゃうし……」
「……うん。分かった」
 音楽室を後にしようとすると、パチッと何かの音がしたのに気づいた。
 帰宅路で、真里が言った。
「もう、神様にお願いごと、叶えて貰ったの?」
「ううん。まだ」
「お母さんに……今でも会いたい?」
「……会いたいなぁ」
 神様。どうして、お願いを聞いてくれないの?
 神様。どうして、お願いごとを叶えてくれないの?
 私、ずっと、ずっと頑張ったのに。約束だって守ったのに。
 深夜。誰もが寝静まった頃。
 ツカサは、同じように庭先に一人でいた。
 夜空に輝く星たちを眺めていると、ひと筋の流れ星が見えた。
「あ……流れ星だぁ」
 流れ星は、落ち切る前に三回願いごとを言うと叶えてくれることをツカサは知っていた。
「お母さんに会わせて下さい。お母さんに会わせて下さい。お母さんに――」
 然し、三回言い終わらないうちに、流れ星は見えなくなった。
 何故だろう。とても哀しくなった。
 泣かないと決めたのに、涙が止まらない。
「お母さん……っ」
 お母さんと、無心で呟いた時だった。
 聞き間違えるはずのない優しい声が聴こえた。
 それは、小さな声で歌を口ずさんでいるようでもあった。
「……この歌……知ってる」
 歌に導かれるように、ツカサは庭を後にした。
 歌は、いつもの通学路から聴こえてくる。ツカサは、夜も深まる中を歩いて行く。
 お母さん、お母さんと何度も口にしながら、弱々しい足取りで進んだ。
 そうして辿り着いたのは、毎日のように通っている学校だった。
 当然、校門は閉まっている――はずだった。
「開いてる……」
 歌は、学校の中、その奥から聴こえてくるようだ。
 ツカサは、夜の学校にも関わらず、不思議なほどに怖くなかった。
 校門を抜け、下駄箱のある場所へと進んだ。
『――ツカサ』
 忘れるはずのない母親の声がした。
「お母さん……?」
 声に導かれるように歩く。何処までも奥に。
 階段を上って、三階の音楽室の前。
『――ツカサ』
 同じように名前を呼ぶ声がする。
 間違えることのない、これはお母さんの声だ。
 そして――音楽室の扉を開けた、その時だった。
 備え付けられているピアノが、まるで演奏しているかのように鳴り出した。
 綺麗な音を響かせる。
 そのピアノの前に座っていた人は――。
「ツカサ」
 お母さんだ。お母さんが、すぐ目の前にいる。
「お母さん……お母さん――っ」
 泣きながら、母親の元へ駆け寄った。
「ツカサ、ごめんね。一人にさせちゃったね」
「ううん。そんなこと、ない」
 お母さんの薫り、お母さんの温もり。
「お母さん、ごめん、ごめんなさい……っ」
「お母さんの方こそ、ごめんね。ごめんね」
 それから、ツカサと母親は、二人だけの僅かな時間を過ごした。
 歌を口ずさんだり、ピアノを教えて貰ったり。
「ツカサ、お母さんのこと、好き?」
「うん。大好き」
「お母さんも、ツカサのことが大好きよ」
 ツカサは、それまでに見せたことのない笑みを浮かべ、この幸せなひと時がいつまでも続いて欲しいと願った。
 でも、そのひと時にも終わりは来る。
「――ツカサ」
「なーに? お母さん」
「そろそろ、お家に帰ろっか、ね?」
「……お母さんも一緒に帰ろ?」
 ツカサの、純粋な言葉に、母親は精一杯の優しさで応えた。
「お母さんは……帰れないの」
「どうしてー?」
「お母さんね……お母さん、神様と約束してるの。ツカサに会いに行く代わりに、十二時になったら終わりって……」
 ツカサは、怖くなって音楽室に備えられている時計を見た。
 十二時まで、残り十分もなかった。
「だからね、ツカサ。お母さんとも約束しよっか」
「……やくそく……?」
「お母さんとの約束よぉ」
「……どんなの?」
 ツカサは、涙を堪えて、泣きたい気持ちを抑えた。
 母親もまた、気丈に振舞った。
「一つだけ約束」と言った上で、母親は、
「想い出を忘れないで。ずっと、ずっといつまでも」
 と優しく諭すように言って聞かせた。
「そうだ。ツカサに、渡したいものがあるの」
 母親は、棚の上に置いてある紙袋を取ってツカサに渡した。
 それは、あの日に渡したいと思っていたクマさんの給食袋だった。
「失くさないように、大事にするのよぉ」
「……うん」
「ツカサ……愛してるから。……忘れないから」
「……うん。……うん」
「さあ、お父さんも心配するから、帰ろっか?」
「――うんっ」
 ツカサは、静かに母親から離れると、音楽室の扉の方へ歩き出した。
 一歩一歩を確かめるように。母親との想い出を辿るように。
「お母さん……まだ、いる?」
「ええ、いるわ」
「お母さん………………まだ、いる?」
「……ええ、いるわよぉ」
「お母さん――」
 三度目の問いかけに対して、
「――バイバイ。ツカサ」
 という言葉を最後に母親はいなくなった。
 それは振り向かずとも、ツカサ自身、分かっていた。
 分かっていたから、
「……お母さん。バイバイ……っ」
 同じくお別れをすることにした。
 ツカサは泣いていた。右手にクマさんの給食袋を握りつつ。
 自宅に着くと、真っ先に父親の部屋に行った。
「お父さん……これ……」
 言って、ツカサはお母さんから貰った給食袋を見せた。
「これは、何だい?」
「お母さんから貰ったの……」
 父親は、疑心になりながらも、給食袋を見つめた。
 その給食袋を、自分は知らない。買った覚えもないクマさんのもの。
 そこから感じられる懐かしい感触。
 神様を信じてる訳じゃないし、死んだ人が生き返る訳でもない。
 然し、父親は悟っていた。
 この給食袋を知っているのは、こんなことをできるのは、あいつしかいない。
 生涯の伴侶にすると決めた、大切な人。
 半年ほど前にいなくなってしまった、愛する人。
「……あいつ……」
 父親は、泣き崩れた。
 哀しみよりも、嬉しさが大きかった。
「ツカサ……お母さんは、元気だったかい?」
「うん。沢山、お話ししたの」
「そっか…………そっか……」
 父親は、ひどく優しい笑顔で、
「お父さん、これから、ツカサの為に頑張るよ」
 と言うと、
「今だけは、弱いお父さんでいさせてくれないか……」
 と泣きじゃくった。
 その日から一週間だけ、ツカサは毎晩のように泣き明かした。
 いつまでも残ってるお母さんの温もりやお母さんの薫りを感じながら、涙が枯れない日はなかった。
 それでも、約束だから。ちゃんとお父さんと一緒に生きていくね。
 お母さん。ありがとう。お母さん。さようなら。
 忘れないよ、忘れないから。
 バイバイ。お母さん。
 あれから、神様とは会ってない。
 お願いごとを叶えたからなのか、二度と会うことはなかった。
 毎夜、庭先で待っていても神様は出てこない。
 そこで、ツカサは理解した。
 神様は、他の沢山のお願いを叶える為に旅立ったんだ。
「神様、ありがとうございます」
 願いごとを叶えてくれたこと、お母さんに会わせてくれたこと。
 大切な、大切な宝物をくれたこと。
 お母さんは死んじゃったけど。もう会えないけれど。
 ずっと泣いてばかりじゃお母さんも安らかになれないよね。
 だから、ツカサは神様ともお別れをすることにした。
「神様、バイバイ」
 その声が雲の上にまで届いたのか定かではないが、白い羽根が一枚だけふわりと落ちてきた。
 空を見上げても、鳥らしい鳥は飛んでいない。
 でも、ツカサは感じていた。お母さんは、約束を守ってる。
 優しく見守ってくれているし、そっと傍にいてくれている。
 沢山の、沢山の哀しいことがこの先にも待ってるかも知れない。
 それでも、お母さんが守ってくれるから怖くない。
 お母さん、大好きだよ。
 お母さん、私も幸せだったよ。
 産んでくれたことで、こんなにも嬉しいことがある。
 生きることは、辛くて哀しい。痛いこともある。
 だけど、数え切れない多くの優しさもあるんだ。
「ツカサ、そろそろ寝なさい」
 ツカサは、振り返ると、
「うんっ」
 と精一杯の笑顔で笑った。
 その笑顔は、それまでに見せたことのない、優しさに溢れた笑顔だった。

♪ ♪ ♪

「これで……御主は、前に進める」
 と、カムイはツカサの眠る部屋を、遥か上空から見て言った。
 その表情は、とても穏やかで優しくて、母が子を想うようなものだ。
「人は、魂と肉体によって形が創られ、心を込めることで人となる」
 形が創られ、成長を経て心が込められ、人は人として尊厳ある存在になる。
 その心は、神様が与えるものではなく、日々の成長していく過程で宿るものだ。
 その過程で経験する種々のもので、善にも悪にも染まる。
「ツカサ……御主は、どちらに染まりゆくか……」
 カムイは、左の袖で口許を隠すと、「フフフ」と笑った。
「これも余興よ。人は――面白い」
 哀しみに勝って成長するか、哀しみに負けて成長を拒むか。
 カムイは、躍った。平安時代の、古い踊りを彷彿とさせる舞を。
 それは、死者を弔うような、そんな踊りなのだろう。

♪ ♪ ♪

 夢を見ていました。
 その夢は、お母さんを失くしてしまう哀しい夢でした。
 信じてもらえないかも知れないけれど、神様のお陰で哀しみを乗り越えることができました。
 神様は、カムイという名前で、願いを叶えてくれます。
 当時、私が願ったことは、一つだけ。
 お母さんに会わせて下さい。
 神様は言いました。
 代償として、ひと月だけ喋ってはならぬ。
 すると、本当に喋れなくなりました。
 そのひと月は、とても長くて、あっという間でもありました。
 終わる頃、私は不思議な体験をすることになります。
 何と、お母さんが目の前に現れたのです。
 幽霊でも、お化けでもありません。
 温かくて、優しくて、懐かしい薫りもして。
 お母さんは、世界で一つしかない宝物をくれました。
 クマさんの給食袋です。
 私の小学校時代は、確かに哀しかったけれど、
 お母さんの遺した給食袋があったお陰で、淋しくはなかったです。
 願いが叶って以来、神様にもお母さんにも会っていません。
 だから、これは一つの夢なんです。
 でも、これだけは言えます。
 神様は、きっといるということ。
 今も、世界のどこかで願いごとを叶えています。
 だから、どうか――
 どうか、恨み辛みではなく、喜びの声で神様に願って下さい。
 そうすれば、必ず、神様は応えてくれる。
 私は、これからも、そう思います。
 だって、ほら、あの時のクマさんの給食袋があるんだもの。
 きっと、どこかで。そうでしょう――お母さん。
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