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お時間の空いた時などにお読み頂けるオンライン小説を扱っている、個人創作サイトです。

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スタジオ『チセ』は、オンライン小説サイトです。
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<スタジオ『チセ』>
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<久遠>
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双子星のプレリュード

 初めに、神様がいた。
 神様は言葉と共にあって、言葉には魂が宿っていた。
 その言葉は言霊とも呼ばれ、神様の息吹そのものだった。
 人間の描く神様は有限で、初めからいた神様は無限でもあった。

 一つとも一人とも言える神様は、栄えた文明を見て一つのことを思い至った。
 こんなにも文明は栄えているのに、人間の願いは一つも叶っていないではないか。
 ならば、神様である自分が叶えてやろう。
 この神様になら、できないことはない。
 神様は、人間の姿を借りて、人間の住む世界に舞い降りた。
 そして、多くの、それはもう多くの願いを叶えていく。
 代わりに、対価を貰って。

 幾百、幾千の時を越えて、それは現代でも続かれていた。

♪ ♪ ♪

 神様は、人間の願いごとを叶えるらしい。
 神様は、どんな願いごとでも、叶えてしまうそうだ。
 世界征服でも、世界滅亡でも、世界平和でも、神様は簡単に叶えるんだって。
 神様が息を吹き掛ければ、傷は忽ち回復し、音を鳴らせば、生死を操るんだ。
 まるで、一つの魔法のようにね。

 そんな神様を人間は、信じているようで信じていない。信じていないようで信じている。
 それでも、自分の中にある願いごとは、信じることの有無に関わらず、神様に願う。
 そして、信じながら叶わなかったら、人間は神様を憎んで、恨む。
 逆に叶えば感謝し、崇め、褒め、称える。
 まして、信仰するモノが異なれば、争うことだって厭わない。
 考えてもみれば、突き詰めてみれば、神様は一つの絶対的な存在でしかないのに。

 今日も人間は、この星をネズミに食われたチーズのように穴凹にして、争い合う。
 時に殺し合って、時に奪い合って、時に哀しみ合って、時に泣き合って。
 それにも関わらず、神様は平等に願いごとを叶えていく。
 滅びでも、再生でも、神様は対価次第で叶える。

 ほら――此処にも願いごとが。

♪ ♪ ♪

 八月も中旬に差し掛かったその日、雨が降った。
 雨粒は、大地を、アスファルトをも、削るように強く叩く。
 それは、神社の境内も例外ではなく、石畳も削れていくようだ。
 その日、五年生の十一歳の瀬戸孝樹が願ったことは、小さくも大きなものだった。
 それまで何度も願い続け、何度も祈り続けた。
 学校が終わる度に、時間が空く度に。
 足蹴もなく通い、一心不乱に祈った。
 すると、孝樹の前に、不思議な薫りと共に何かがふわりと舞い降りてきた。
 白粉を連想させるかのような懐かしさを感じる薫りが、孝樹を支配した。
 何ごとかと思った。当然、神様だと思う発想もない。
 これは、幽霊の類ですか?
 けど、幽霊にしては、幽霊らしからぬ姿をしている。
 まして、両足がしっかりとある。
 幽霊なら、その多くは両足が途中で消えているものだし、ぼやけているものだ。
 心霊写真でも、心霊現象でも、ここまでハッキリとしているものはない。
 一転して、目の前の女の人には両足があるし、明らかに生きている人間と見間違えるほど。
 つまり、人間ですか?
 神社の境内で、なけなしのお賽銭を払って、祈っている時でのことだった。
 幽霊――もとい神様は、とても美しい女性で、古風な立ち振る舞いをしていた。
 白い着物が似合って、半透明な羽衣も身に纏って、美人とはこういった人のことを言うのだろうか。黒くて長い髪の毛も、足許の下駄のような履物も、八頭身な身長も、現代人とは一線を期しているようだ。
 何より、その女性を中心に楕円状で雨粒を弾いている。
 舞妓さんのような、平安時代のような、あまりの幻想的な風景に見惚れていたようにも思う。
 女性が何やら小言を呟きながら、孝樹に近づいてくる。
「――御主の願い、しかと聴いたぞ」
 凛とした透き通る声。
 女性の黒く澄んだ吸い込まれそうな瞳が孝樹を捉えた。
「あの……あんた、誰?」
「我が名は――カムイ。ただの神様じゃよ」
「……は? 神様?」
 一瞬、何を言っているのか分からなかった。
 仮に神様なのなら、どうして今まで姿を現さなかったのか。
「信じられぬかえ?」
「本当に……神様なの?」
 孝樹は半信半疑だった。
 そりゃあ、今日まで神様に願ったし、祈り続けたけれど、それが信じることにはならないし、なり得ない。
「勿論じゃよ。その証に、御主の願いをおひとつ叶えて見せましょう」
「……願いごと? 何でも良いの?」
「無論じゃ」
「えっと……じゃあ……お金を出してよ」
「良かろう」
 言って、カムイは、手に持っていた扇子をパチッと鳴らした。
 その刹那、何処からか孝樹に風が吹き、足許にお札がひらひらと舞った。
 千円と小額だけど、確かにお金が舞っている。
「なっ……マジかよ」
「妾(わらわ)は神。願いを叶える為に此処におる」
 然し、今以って、孝樹は神様を、カムイを信じられなかった。
 確かに突然、目の前に現れたけれど、それが神様という証にはならない。
 足許のお金だって、偶然、風に舞ってきただけかも知れないし。
 信じるには、もっと信じるに足るものが必要だ。
「……神様……?」
「然様じゃ」
「神様なら、妹の――加奈の病気を治してよ」
 孝樹には双子の妹がいる。
 加奈は心臓に重い病気を抱えており、いつ死んでも変ではない。
 難病指定されているもので、移植以外では根本的な治療にはなり得ないとされている。
「それは……今の御主では無理じゃ」
「ど、どうしてさ? 神様なんだろ!?」
「御主の妹は、遠くない世に死ぬからじゃよ」
 カムイには、あらゆる人間の死期が見えている。分かっている。
「死ぬ……? ふざけたことを――」遮るように「事実じゃ」とカムイは言った。
 その上で、諭すように言葉を紡いでいく。
「良いか? 命を操るには、相応の対価が必要じゃ。今の御主には払えんよ」
「なら……なら、どうすれば払えるの?」
「妹の為に、御主は死ぬ覚悟がおありかえ?」
「俺が……死ぬ?」
「命には命を以ってしか操れぬ」
 命を賭す覚悟があるのか、とカムイは問いかけた。
 死んでしまう命を、理を捻じ曲げて生かすのだ。相応の対価が要る。
 孝樹は、深く肩を落とした。
「すまぬな」
 カムイは、それ以上、何も言わなかった。
 加奈は、どれだけの願いを以ってしても、助からない。
 死んでしまう運命を変えられない。ただただ、指を銜えて待つしかない。
 死ぬ時を、最期の時を。その一瞬を。
 孝樹の深い哀しみを遮るように、雨は降っている。
 ザーザーザーと。
 無力な自分が恨めしく、怒りさえ湧いてくる。
 今まで、加奈と同じ時間を共有してきた。
 それは、これからだって変わらないはずだった。
 でも、終わってしまう。
 変わらないモノが、変わってしまう。
 加奈を救うには、自分が犠牲にならないといけない。
 それはつまり、死ぬということ。
 命には、命を以ってしか対抗できない。
 カムイはそう言った。
 けれど、自分が犠牲になれば、加奈は哀しむに決まっている。
 双子の兄妹だからこそ、分かり合えるモノがある。
「何で……何で……くそ……!」
 孝樹は、神社の境内、その出口に向かって走り出した。
 神様なら助けてよ。救ってよ。
 今日まで、ずっと、ずっと神社に通い続けたのに。
「――妾は、御主の傍におるゆえ……」
「……え?」
 ふと振り返ると、そこには誰もいなかった。
 廻りを見渡しても、それらしい姿はない。
 白昼夢という類のものだったのだろうか。
「何なんだ……アイツは……」
 不満そうに、呟いた。
 そうだよな、そうなんだよ。
 神様なんて所詮、その程度のものなんだ。
 気紛れで、移り気で、飽き性で、人間を弄ぶんだ。
 不思議と、あれだけ降っていた雨も、境内を出る時には止んでいた。

♪ ♪ ♪

 あれは、まだ日常の中にいた頃――。

 ――七月の終わり。
 此処に、孝樹と加奈、双子の兄妹がいる。
 一人は日焼けした肌が健康的で、もう一人は白い肌が印象的だ。
 二人は同じ時間を共有してきて、同じように成長してきた。
 にも関わらず、身長は拳一つ分だけ孝樹の方が上で、体格も心なしか良い。
 十二歳の兄妹は、その夏も例年通りに満喫しようとしていた。学校から出された夏休みの宿題を、お互いに協力して、少しずつ終わらせながら。その宿題のうち、自由研究にと昆虫採集をしようと自宅から三十分程離れた場所にある大きな公園に出かけていた。
 ミンミンと鳴き続ける蝉の生態を調べるという自由研究だ。
 図鑑でも調べられるが、やはり実物が欲しかった。
「――あ、逃がした!」
 と、孝樹は叫んだ。
 虫取り網には何も入っていない。
 丁度良い高さに位置していた蝉を、これで二度も逃がした。
「ねー……良く、虫なんて触れるよね」
 と、加奈は不機嫌そうに言った。
 そんな加奈は、昆虫や爬虫類といった類が苦手だ。
 当然、今回の自由研究もひまわりといった花の観察を計画していた。
 けれど、
『昆虫の方が格好良いんだっ』
 と、押し切られてしまった。
「昆虫は男のロマンなんだぜ?」
「……また、それ。女の子のロマンは? たーくん」
 たーくんとは、孝樹の愛称だ。
「その呼び方は、辞めれ。恥ずかしいんだってば」
「良いじゃん。誰も見てないし、聞いてもないし」
 言って、加奈は、陽射しを遮れる木々の下に座った。
 今年の夏は、例年よりも暑いと気象予報でもやっていた。
「……暑いなぁ」
 南国とか、砂漠にいるのではと思えるぐらいに暑い。
 だから、早く昆虫採集を終わらせて、冷房の効いた部屋で休みたいと思った。
 キンキンに冷えた麦茶を飲みたいし、バニラのアイスクリームも食べたい。
 麦わら帽子を深く被って、地面にいたダンゴムシを見つめ、人差し指でツンと触れた。
 昆虫もこんな可愛いのばかりなら良かったのに、なんて加奈は思う。
 昆虫で、それも羽根の生えたのなんて、とてもじゃないが触りたくない。
 ゴキブリだって、見るだけでも地獄だ。
「……あ! そっちに逃げた!」
「え? え!?」
「捕まえてくれ!」
 これで三度目だ。
 二度あることは三度あるとも言うけれど、三度目の正直になって欲しい。
「でも、私……触れない!」
「麦わら帽子で捕まえるんだ!」
 加奈は、麦わら帽子を構えると、えいっと、迫り来る蝉に翳した。
 麦わら帽子の中には、先程まで飛んでいた蝉が煩く鳴いている。
「やったな! これで、自由研究ができるぞ!」
 言って、孝樹は捕まえた蝉を逃がさぬよう、虫かごに入れた。
「もう……この帽子、使えない」
 ボソッと、加奈は呟いた。
「何で? 使えるじゃんか」
「虫が入ったんだよ!? 私には無理!」
「……ったく、虫ぐらいで……」
 孝樹の一言に、加奈は怒った。
「なっ……虫ぐらい、ですって!?」
 孝樹は、また始まったと耳を塞いだ。
 加奈は、一度でも怒ると手がつけられない。
 兎に角、言葉責めが凄いのだ。熱が冷めるまで、延々と言葉が続く。
 昔に一度怒らせたことがあったが、その時でさえ一日中文句言っていた。
「虫は嫌なの! ピーマンと同じで、虫は大嫌い!」
 口撃は止まることを知らない。
「あーあー、分かった。分かったから」
「分かってない! 良い? 虫は、無視なの!」
 虫だけに無視とは上手い、なんて。
 結局、口撃が終わったのは、茜色に街並みが染まる頃だった。
 勿論、それまで呆然としていた訳じゃない。
 自由研究の為に、クマゼミとか、アブラゼミとかを採集していた。
 孝樹の後ろを加奈はついて廻り、煩く口激を繰り返した。
「はぁー……私は……っ。ケホッケホッ」
 加奈の口撃を他所に、孝樹は採集に夢中だった。
「よし。これだけ捕れれば、良いな」
 虫かごには、アブラゼミやクマゼミ等の数種類の蝉が詰まっている。
「ぶー……」
 加奈の機嫌は悪い。
「悪かったって。本当に悪かった」
「……双子なのに、どうして、こんなに性格違うんだろ……」
 孝樹と加奈は双子だが、二卵性だ。一卵性と違って、全てが全て似る訳ではない。癖も、好みも、好きな食べ物も違っている。カレーやハンバーグが好きな孝樹と違って、加奈はお洒落なシチューやオムライスが好きだ。
 虫かごの蝉が煩く鳴いている中、二人は帰路に着いた。
 横断歩道を通り、歩道橋を渡って、暗くなる前に帰ろうと自宅に急いだ。
 その道中、季節外れの大雨が降り、大地を力強く叩いた。
 夕方にも関わらず、辺り一面は暗く、突然の大雨に皆、家路を急いでいる。
「げ……雨だ!」
 孝樹と加奈は、近くの小さなスーパーで雨宿りをすることにした。
「雨……今日は降らないって言ってたのに……」
「あくまでも、予報だからな」
 予報は予報。天気予報も外れることだってある。
「――おや、こんな所で何してるんだい?」
 二人がスーパーの前で座り込んでいると、聞き覚えのある声がした。
 近所に住んでいる水野の小母さんで、よくお裾分けを貰ったりしている。
「雨宿りしてるの」
「そうだったのかい。でもねぇ、雨は止みそうにないよ?」
「えー……そうなんですか?」
「そうだ。送っていってあげようか? 丁度、車で来てるんだよ」
 孝樹と加奈はお互いの顔を見やった。
 知らない人にはついていって駄目と言われてるけど、水野の小母さんは知ってる人。
 雨も止みそうにないし、傘を持ってる訳でもない。
 ここは、お言葉に甘えて……も良いよね。
「んじゃ、送っていって貰おうぜ!」
 水野の小母さんの車に乗り込んで、暫く進んだ時だった。
 加奈の表情が先程までとは暗転、明らかに違い、苦痛に歪んでいる。
 過呼吸になり、胸を押さえながら顔色が青褪めていく。
「加奈……? おい、どうしたんだ!?」
「……ハァ……ケホッ……」
「加奈!?」
「胸が……苦しい……っ」
 加奈の状態に普通じゃないと悟った孝樹は、水野の小母さんに訴えた。
「小母さん! 加奈が、加奈が……!」
「どうしたんだい!?」
 フロントミラーで後部座席にいる加奈を見ると、すぐに車を一時停止させた。
「加奈ちゃん、大丈夫かい!?」
 小母さんの呼びかけにも、加奈は無言のまま反応を示さない。
「拙いねぇ」
 状況は一刻を争うと察すると、病院へ進路を変えた。
「すぐに病院に着くからね!」
 十五分という病院までの時間が、妙に長く感じられる。
 赤信号に捕まったり、渋滞に遮られたり。また赤信号だったり。
 病院に着くと、加奈は集中治療室に運ばれた。
 すぐに病院経由で両親にも連絡が行き、一時間が経つ頃には全員が揃った。
「孝樹!? 加奈はどうなの!?」
 母親――京子の第一声。
「分かんない……急に倒れて……それで……」
「今は、待つしかないな」
 父親――幸太郎の声。
 深夜遅く集中治療室の扉が開き、担当医らしき人が出てくる。
 その医師は開口一番、
「ご家族の方ですね? 加奈さんのことで少しお話しがあります」
 と言った。
 嫌な予感がしたと同時に、胸の辺りが痛くなった。
 胃液が逆流してきた時のような痛みと軽い吐き気。
 加奈のいる病室とは違う部屋で、医師は説明を始める。
「加奈さんの心臓に異常が見つかりました」
「――え?」
「特発性拡張型心筋症という病名をご存知ですか?」
「特発性……心筋症……?」
 家族全員が口を揃えた。
「心筋が伸びてしまう病気で、自覚症状は殆どありません」
「どういうことですか?」
 京子が訊ねた。
「病状が進みますと、心不全や不整脈を起こします。最悪、死んでしまうこともあるんです」
「そんな……治るんですよね!?」
「残念ですが、現代医学では、完治させることは難しく、生存率も低いです」
 医師の説明では、発症後の生存率は低いらしい。
「根本的な治療は心臓移植以外になく、それ以外では完治は難しいです」
 医師は、それ以上、何も言わなかった。
 つまりは、そういうことなのだろうと思う。
 告知というものだ。
 加奈は、死ぬ。死んでしまう。
「ふざけるな……」
 幸太郎が絞り出すように言った。
「加奈は、まだ十一歳なんだ。それが……そんな……」
「父ちゃん……心臓移植って、何なの?」
「……」
「父ちゃん?」 「…………心臓を交換することだよ……」
「加奈……死んじゃうの?」
「…………最悪な……」
 加奈が死んじゃう?
 さっきまで一緒に昆虫採集してたのに、死んじゃうの?
「そんなの変だよ……」
 声が洩れた。
「だって、さっきまで元気だったんだよ……?」
 帽子のことで、煩いぐらいに文句も言ってたんだ。
 京子が医師に詰め寄った。
「先生、娘は……助からないんですか?」
「内科的治療では、進行を緩めることしかできません」
「他には……他には無いんですか……?」
「バチスタ手術や補助人工心臓の使用がありますが、根本的に治す意味では、あまり現実的ではないですね」
 医師の説明に、京子は深く肩を落とした。
「移植にも費用の問題があり、募金や基金から払われる方もいます」
「費用……?」
「国内と国外とで費用も大きく異なるんです。国内ですと数百から、国外を含めると多くて一億です」
 心臓移植には、海外で行う場合、最大で一億もの費用がかかる。
 手術費用だけではなく、入院費用に渡米する為の費用。
 他にも滞在費といったものも含まれるからだ。
「加奈さんにはまだ告知していませんが、告知しても分かる年齢ではないでしょう」
 加奈は、死んでしまう病気になったことを知らない。
「ですが、治療していく上で、いつかは説明する必要が生じると思います」
 加奈は十一歳。そんな子供には重過ぎる病気と現実。
「――告知を、します」
 幸太郎が言った。
「何も知らないままでは、加奈があまりにも不便だ……」
「良いんですか?」
「……はい」
 翌朝になると、告知が行われた。
「加奈、驚かないで聞いておくれ」
「お父さん……どうしたの?」
「加奈、お前の病気についてお話しがあるんだ」
「私の……病気?」
 幸太郎は、深呼吸をして話した。
 言葉一つひとつを確かめながら紡ぎ出すように。
「拡張型心筋症という心臓の病気で、死んでしまうかも知れないんだ」
「……え?」
「加奈……すまない」
「私……死んじゃうの?」
「……すまない……加奈、すまない……っ」
 幸太郎は、加奈を胸に抱き寄せた。
 だが、加奈は、まだ状況を呑み込めていない様子だ。
「私……元気だよ?」
 同意を求めるかのように、孝樹を見た。
「たーくんも、何か言ってよ……」
「加奈……」
「たーくん……?」
「加奈が……加奈が死ぬ訳ないじゃん!」
 孝樹は、精一杯の笑顔で答えた。
 こんなにも元気なのだから、死ぬなんてあり得ない。
 そんなことばかりが心中を支配する。
「だってさ……だって、こんなにも元気なんだぜ?」
「だよ……ね。そうだよね。私、元気だもんねっ」
「加奈は、元気だけが取り得だしな!」
「たーくんもじゃない」
 言って、加奈は笑った。
 いつものように明るく、無邪気に笑った。
 病気じゃないのではないか、そう思えるぐらいに笑っていた。
 でも、加奈は病気だ。
 心臓移植以外に根本的な治療法を持たない病気を患ってしまった。
 健康そうに見えてはいても、それは偽りだ。
 その日の帰り道は、とても長く感じられた。
 僅か三十分程の時間が、その何倍にも感じる。
 自宅に着くなり早々、京子は、胸の内を吐露した。
「……どうして、加奈なのよ。あの子が、何をしたって言うの……」
「京子……」
「神様は残酷よ……! あんまりよ……」
 子供が泣きじゃくるように、京子は泣き出した。
 それを見て、孝樹は思う。
 皆を哀しめる神様は許せない、と。
 加奈を病気にして、父さんを哀しませ、母さんを泣かせる神様は酷い奴だ。
 神様は平等だというけれど、これのどこが平等なんだ?
 神様は平等じゃない、不平等だ。公平ではなく、不公平だ。
 その証拠に、加奈は何も悪いことをしていないのに病気にされてしまった。
 八月から、孝樹は、最寄りの神社に通うようになる。
 神社になら神様もいるだろうという発想からだ。
 神様に一言でも二言でも良いから文句を言いたかった。
 言いたかったのだけど……。
「全然、会えないじゃんか!」
 祈り方が悪いのか、祈りが届いていないのか。
 それとも、お賽銭が足りないのか。
「これじゃ、賽銭泥棒だろ!」
 段々と怒りが込み上げてくる。
「これが、最後のお小遣いだ!」
 言って、孝樹は最後のお小遣いを賽銭箱に叩き込んだ。
 然し、神様が出てくる気配はない。それどころか、突然の雨に見舞われた。
「だあー……! 何なんだよ!」
 毎日、通い詰めて、その度にお金も投資した。
「少しは出てきたって良いじゃないか!」
 神様は、本当に不平等だ。不公平だ。
 どれだけ祈っても、どれだけ投資しても、願いごとの一つも叶えない。
「何でだよ……何で……。一つぐらい、我儘を聞いてよ。加奈を助けてよ……」
 弱々しく言葉を紡いだ、その時だ。
「――御主の願い、しかと聴いたぞ」
 諦めかけていた時のこと。
 孝樹は、生まれて初めて、神様に出会った。

♪ ♪ ♪

 神様は――カムイは、とても美しい女性だった。
 和服美人で、所謂、大和撫子と呼ばれる部類に入ると思う。
 喋り方は変だけど、願いごとを対価次第で叶えてくれる。
 その神様は今、俺と一緒にいたりする。
「――カムイ!」
 昼休み。孝樹は、誰もいない学校の屋上でカムイの名を叫んだ。
「大声を出さずとも、聞こえておるぞ?」
 相変わらず、変な喋り方をしている。
 九月になっても、カムイは孝樹に憑いたまま。
「いつになったら、俺から離れる訳?」
 そりゃ確かに神様に会いたかったけれど、憑かれるのは勘弁だ。
「飽きるまでじゃ」
 カムイは、孝樹の周囲をふわふわと宙に浮いたまま答えた。
「それと、その喋り方は止めてくれ」
「ふむ……日本では、このような喋り方をせぬのか?」
「いつの時代の人間だよ!? つか、そんな喋り方する奴なんていないぞ!?」
「然様か。為れば……」
「……?」
 カムイが扇子をパチッと鳴らすと、途端に喋り方が少しばかり変わった。
「坊や、これで良いか?」
「坊やって、もしかして俺のこと?」
「坊やを置いて、他に誰かいるとでも?」
「名前があるんだから、名前で呼べよ。名前で」
「孝樹……先程から苛立っているようじゃが?」
 孝樹の苛立ちの原因は、願いごとにある。
「願いごとを考えてるんだ」
「妹……加奈を助けることかえ?」
「そうだよ。どうすれば、加奈を助けられるか考えてるんだ」
「命を払わずに助ける方法……か?」
「……ああ」
 孝樹は、ずっと考えていた。
 加奈を助けるには、命を払う必要がある。けれど、それをすれば、哀しむに決まってる。
 加奈だけではなく、両親までも深く哀しんでしまう。
 誰も哀しまないで済ませる方法は……。
「ない」
 カムイは、冷たく「ない」と答えた。
「前にも言うたはず。命には命を以ってしか操れぬと」
「だから……何なんだよ……」
 孝樹は、小さく吠えた。
「神様なんだろ!? 少しぐらい、我儘を聞いてくれたって……」
「坊やだけを特別扱いはできぬ。それにな……」
「?」
「人の理を弄ることは簡単。じゃが、それをすれば、どうなるか」
「そんなの関係ない……」
「関係なくはなかろう?」
「なら、どうなるって言うんだよ……」
「世のバランスが崩れることに繋がり兼ねん」
「……どういう意味さ?」
「盗人がいなければ、それを捕まえる警察も要らぬ、ということじゃ」
「……やっぱり、分かんねーよ」
 カムイの言っていることも、どうすれば良いのかも、分からない。
 分からないのは、分かろうとしていないからなのか。
 自分が子供だからなのか。
「あー……分からない」
 グルグルと思考の渦に呑まれてくような感覚だ。
 自分のバカさ加減が恨めしく思えてくる。
 下校時間。いつももなら、
『たーくん、帰ろ?』
 と、加奈の声が聞こえるけれど、今は聞こえない。
 下駄箱で上履きから下履きの運動靴に履き替えている時だ。
「――瀬戸」
 言って、孝樹の背中に誰かが触れた。
 振り返ると、クラスメイトの男子生徒が三人、立っていた。
 知らない顔じゃないけれど、親しいかと問われれば、違うと言える。
 友達なのは確かだが、親友と言えるほどの仲ではない。
「……何?」
 孝樹の背中に触れた男子生徒――透が答えた。
「今日、俺の家でゲーム大会するんだけど、瀬戸もどうだ?」
「……ゲーム大会?」
「格闘ゲームに、ロープレにさ。夏休みの延長みたいなもんだよ」
 そう言えば、夏休みからずっとお見舞いや神社通いが続いていた。
 友達と遊ぶこともなかった。
 いつも学校が終われば、加奈のいる病院に足早に通った。
 それは、友達も知っていることだった。
 でも、一ヶ月以上も遊ぶことがないとつまらない。
 例え、事情があるとしても、一ヶ月も疎遠だと友達としては在れない。
「どうだ? やっぱり、無理か?」
 誘惑。甘い罠。
 此処で誘いに乗ったら、負けてしまったら、加奈に悪い気がする。
 けれど、友達からの誘いを無碍にするのも申し訳ない。
 どうしよう、どうすれば。
 悩み、悩んだ末に出した答えは……。
「……良いよ。行く」
 二つ返事で、負けてしまった。
「……良いのか!?」
「少しだけなら、大丈夫だからさ」
「よっしゃ。決まりだな」
 今日は、お見舞いに行かなくても大丈夫だよね。
 透の家は、マンションの最上階にある。
 十畳程の広さのある部屋には、漫画やゲームが所狭しに置いてある。
 ヴォイステと呼ばれるゲーム機に、流行りのロープレのソフトを入れた。
『勇者の血』というゲームで、主人公は、流行り病に罹ってしまった幼馴染を助ける為に、魔王の住む城に生息すると言われる伝説の動植物の血を求めるストーリーだ。
「このロープレ……」
 テレビ画面には、モンスターを倒してレベルアップしていく勇者の姿が映っている。
 その画面を見つめながら、孝樹は思い廻らせた。
 きっと、この勇者は、幼馴染を助けられない。
 それどころか、哀しませるのではないだろうか。
 孝樹の予想は、思わぬところで当たる。
 伝説の動植物は存在しなかった。
 代わりに、それまでの冒険で成長してきた勇者の血があった。
 その血を以ってすれば、あらゆる病を治せる。但し、自らの命と引き換えに。
 勇者が村に戻ると、幼馴染は重体だった。
 一考する余裕も時間も無い中、村に群れから逸れたモンスターが攻め入った。
 勇者はモンスターを返り討ちにするが、酷い傷を、瀕死になる程の傷を負ってしまう。
 意識が朦朧としながらも、勇者は自分にできることが何かを考えた。
 答えは、最初から決まっていた。
 幼馴染が助かるのなら、死に逝く自分にもできることがある。
 勇者は自らの命と引き換えに幼馴染を助ける。
 幼馴染が意識を取り戻すと、勇者は既に言切れていた。
 けれど、勇者の表情はとても安らかで、何の未練も無いかのようだった。
 幼馴染は、いつまでも勇者の亡骸を抱き続け、そのままエンディングとなる。
 一見するとバッドエンディングなゲームだけど、これでも一応はゲームクリアである。
「……っ」
 孝樹の頬に、一筋の光が見て取れた。
 何故だろう。泣きたくないのに、涙が零れるよ。
「瀬戸!? ど、どうしたんだよ!?」
 透を含めた皆が驚いている。
「分かんない。分かんないけど……」
 拭っても、拭っても、止まらない。
「ごめん……今日は帰る」
 帰り道。カムイが孝樹に話しかけた。
「坊や……心が痛むかえ?」
「お前に、人の何が分かるんだよ……」
「妾は神じゃ。分からぬことは何一つとしてありはせぬ」
 孝樹は立ち止まって、答えた。
「だったら……俺の願いだって――」
「その痛みは、生きることの痛みじゃ」
「…………生きることの……痛み? 何だよ、それ……」
「死してしまった者は、痛みを感じぬ」
 カムイは、多くの命の誕生と終焉を見てきた。
 生きることは痛みを伴い、死することは痛みを伴わない。
 どれだけ哀しく痛くても、死んでしまえば、何も感じなくなる。
 そう、死んでしまうまでは……。
「その痛みを、忘れぬでないぞ?」
「……やけに喋るじゃんか」
「何……ただの独り言よ」
 カムイは、袖で口許を隠し、軽く微笑んだ。
 何がそんなに可笑しいのか。愉快なのか。楽しいのか。
 俺は、こんなにも哀しいのに。辛いのに。苦しいのに。
 胸がズキン、ズキンと痛むのに。
 孝樹は、茜色に染まる空を見上げた。
 燃えている。火事にでもなったのかと思うぐらいに。
 大地を見下げて、影を見詰めた。
 目の前にある電柱にまで影は細長く伸びている。
 いつか加奈と身長のことで、どちらが上か口論したことがある。
 当時、身長が同じぐらいで、影の長さも同じぐらいだったから。
 だから、いつか絶対に追い越してやると意気込んでいた。でも、一年、二年と経つにつれ身長に差ができてくると、意気込む行為に意味も価値も見出せなくなった。
 今では、お互いに身長のことを持ち出さなくなったし、優越感や劣等感を覚えることもない。
「なぁ……カムイ」
「何じゃ?」
「俺の命で、加奈は助かるの?」
 孝樹の問いに、カムイは迷わず、
「助かる」
 と、答えた。
「だったら……」
「死は、想像よりも苦しく、痛いぞ?」
 カムイの一言に、孝樹はそれ以上何も言えなくなった。
 生きることでさえこんなにも苦しくて痛いのに、死ぬことはそれ以上に――。
 死ぬって何なのだろう。考えられるのに、考えられない。
 イメージができるのに、イメージができない。
 それなのに、人は死を怖がる。
 どうして?
 死ぬって何だ? 死ぬことって何なんだ?
 苦しむことなのか、哀しむことなのか、痛むことなのか。
 それとも――誰かを失くすことなのだろうか。
 失くして、想い出から消えてしまうことなのだろうか。
 分からない。
 分からない。
 分からないよ……。
 何が分からないのかも、分からない。

 分からないままに――。

♪ ♪ ♪

 加奈が入院してから二ヶ月が経った。
 いつもと同じ空気に風、同じ風景に情景。
 二ヶ月も通い詰めていると、嫌でも慣れてくる。
 白くて無機質な病院も病室も、白い壁も床も、見慣れたよ。
 この扉を開けると、また――また、辛い日常が待ってるんだろう。
 土曜、日曜は、朝から加奈のお見舞いへと孝樹は行くようにしている。
 一人だけ勉強が遅れないように、授業で取ったノートを持ってきたりして。
「――ありがと、たーくん」
「……おう」
 加奈は、入院を切欠に友達の輪から離れていった。
 それまで孝樹と同じぐらいに活発だった加奈も、心臓に病を抱えてからは、日々の生活にでさえ送るのがやっとになった。
 そんな加奈に、自分は何ができるのだろう。
 孝樹は、この二ヶ月、ずっと、ずっと考えていた。
 兄妹として、兄として、家族として、加奈を助けたい。
 その孝樹の想いに加奈も、双子ゆえに気づいていた。
 自分が病気になってしまったから、孝樹も自由に時間を使えない。
 友達とだって遊べてないし、いつも負担ばかりを強いてしまう。
 だから、加奈は人知れず思い、願った。
 病気が治るのなら、今すぐに治して欲しい。それが無理なら、楽にさせて欲しい、と。
「……ごめんね、たーくん」
「な、何で謝るんだよ!?」
「だって、私がこんなだから、たーくんも不自由してるよね……」
「そんなことは良いんだよ。好きで病気になった訳じゃないだろ?」
「それでも、ごめんね」
 加奈は病に堕ちてから、謝る癖がついてしまっていた。
 病気になってから、皆に迷惑をかけていると思い込んでしまっている。
 どれだけ廻りが「大丈夫だよ」と言っても、加奈は一人で抱え込んでしまう。
 それもこれも、全て病気が悪いんだ。病気があるから、病気の所為で。
「ケホッ……」
「だ、大丈夫か!?」
「……うん、平気」
 見慣れない点滴に、聞き慣れない薬を毎日のように投与している。
 加奈の心臓は、通常の三分の一程度の機能まで低下している。今は薬で誤魔化しているが、それもいつまでもできるという訳ではない。将来、必ず心臓にメスを入れることになる。
 病室の扉がコンコンと叩かれ、開かれる。
「加奈? 入るわね」
 母親の京子が、昼食を持って入ってくる。
「孝樹、あなたも昼食買ってきたから、食べなさいね」
 京子は、また忙しそうに病室を出て行った。
 加奈の食事は、全て心臓に負担をかけない内容になっている。
 塩分も、糖分も、全て抑えられており、水分も摂取制限がある。
「……美味しくないなぁ」
「そんなに不味いのか?」
「……うん、薄味もいいとこ……」
「まぁ……すげー濃いのよりはマシだろ?」
「……そうだね」
 ベッドの直ぐ傍にある小さな窓からは、秋の初めを報せる冷たい風が感じられる。
 十月、季節は秋の初め。
「大分、涼しくなってきたよな」
「……たーくん?」
「んー……?」
「私、治るのかな……?」
「加奈……」
「死んじゃうかも知れないんだよね……私……」
 加奈は既に告知を受けている。
「加奈は死なない。告知だって、可能性があるというだけなんだ……」
「けど、半分は死んじゃうんでしょ……?」
 加奈は、告知を受けた日以降も、医師から多くの話を聞かされた。
 身の詰まるようなことから、一種の絶望を覚えることまで多くを聞いた。
「私……死んじゃうのかぁ……」
「加奈は……死にたいの?」
「……それは……でも、無理だもん」
「もしも……もしもだけどさ……病気が治るのなら、どうする?」
「……治らないよ」
「だから、もしも、だよ」
 加奈は、暫く考えてから答えた。
「もしもなんて、やっぱりないよ……」
「どうしてさ!? あるかも知れないだろ!?」
「ううん、ない」
「ある!」
 声を荒げる孝樹に、加奈は驚いた。
「俺には……その、何つーか。できる……かも知れないんだ」
「……何が、できるの……?」
 俺の命で助けられる。なんて、口が裂けても言えないよな。
 まして、死ぬことで助けられるなんて、あまりにも哀し過ぎる。
「えっと、あの……だからさ………俺が、お前を助けるから……っ」
 って、何を言ってるんだ、俺は。
 そりゃ助けられる。けど、助けられないと言うか。
 どっちも正しくて、どっちも間違ってて。
 加奈はキョトンとしている。
 それもそうだよな。突然、助けられるなんて言われても、混乱するだけだよ。
 願いごとが何でも叶えられるなんて、普通ならありえないことだし。
「……どうやって?」
「あ、あー……どうやってだろ……?」
「私に訊かれても分かんないよ。たーくん」
 クスクスと無邪気に笑っている加奈。
 やっぱりカムイのこととか、願いのこととか、言える訳ない。
「そ、そんなに笑うことかよ?」
「だって、たーくん。うふふ」
「ったく、心配した俺がバカみたいじゃないか……」
「――ありがと、ね」
「……え?」
 突拍子もなく感謝の言葉を告げる加奈に、孝樹は何が何だか分からない。
 ありがとうと言われても、何も感謝されることはしてない訳で。
「嬉しかった。凄く」
「ば、バカ。いきなり、何言ってるんだよ」
「えへへ。自分でも何を言ってるのか、分かんない」
「と、取り敢えず、早くご飯食えって」
「うんっ」

♪ ♪ ♪

 孝樹は加奈と六畳を半分ずつに分けて使っているが、この二ヶ月は一人だけ。
 いつも狭いと不平不満を洩らしていたけど、いざ一人になると広過ぎる。
 加奈の勉強机は、入院が決まった日から使われていない。
 軽くホコリが積もったりして、それが余計に現実を思い知らしてくる。
「…………加奈……」
 下手をすれば、このまま加奈が戻って来ることはない。
 そうなれば、このだだっ広い部屋が、より一層広くなる。
 夜。十二時を過ぎた頃。
 何処からか、歌声が聴こえてくる。
 よく大河ドラマなんかでやる、古風の歌声。
 この声には聴き覚えがある。もしかして、カムイ?
 二段ベッドから下りると、部屋を見渡した。が、そこにカムイはいない。
「あれ?」
 歌声は、どうやら庭先から聴こえる。
 夜も遅い為、静かに庭先に出ると、カムイが歌いながら舞っていた。
 その舞は、初めて会った時と同じく幻想的で、圧巻。感動すら覚えるほどだ。
「夜は冷えるなぁ……」
「まだ眠っておらなんだか?」
 カムイは、煌びやかに舞いながら、視線を孝樹に移した。
「考えごとをしてたんだ」
「然様か」
「……もしもだけど、俺の命で加奈を助けるには、どうすれば良いの?」
「坊やは、死にたいのかえ?」
「だから、もしもの――」
「否。世に、もしもなど、ありはせぬ」
 カムイの右手に握られた扇子がパチッと閉じられ、舞も止まった。
「妾は、神じゃ」
「う、うん。だろうな」
「時に……坊やは言霊を知っておるか?」
「ことだま……?」
「言の葉に宿り給う御霊のことじゃ」
「……知らない。分からない」
 カムイは「では……」と云わんばかりに、一つの話を言って聞かせた。
 言霊とは、霊そのものであり、五十音の言葉を使うことにより、森羅万象が成り立つ。特に日本に於いては、その言霊が信じられており、声として発せられた言葉が事象に影響を与えるとされている。したがって、自らの意志を声として発する際の言葉が悪しきものに属する場合、それにより齎されるものも悪しきものになってしまう。
「どういうこと?」
「分からぬか? 言葉の言は事象の事に結ばれ、良き言は良き事を、悪しき言は悪しき事を招くということじゃ」
「……やっぱり、わかんねーよ」
「坊やは、願う時に悪しき言の葉を用いておるのか?」
「なっ……違う……そんなことない! 加奈を助けたいのだって……!」
「それと同じじゃよ」
「同じ……?」
 さっぱり、カムイの言っていることは分からない。
 言霊だの、御霊だの、何を伝えたいというのだろうか。
「真に願いを叶えるは、御主等ぞ。妾は、手助けをするに過ぎん」
「……あーもう、訳わかんねー……」
「近い世に分かりましょう」
 言って、カムイは扇子の先を孝樹の額に当てた。
「さあ……夜も晩い故、床に就きなさい」
 再び、扇子をパチッと鳴らすと、孝樹は部屋にいた。
 きちんと布団に包まり、程なくして目覚まし時計が鳴り響き目を覚ました。
「……いつの間に部屋に……?」
 昨晩のことは、夢だったのか?
 カムイが歌いながら舞っていて、その後で言霊とか御霊とか話されて。
 そうだ、カムイは? カムイは何処だ?
「カムイ……?」
 ベッドから上体を起こして、カムイの名を呼んだ。
 が、カムイの声は聞こえない。それどころか、姿さえ見えない。
「いない……のか?」
 孝樹は、もしかしてと思い、庭先に向かった。だが、そこにもカムイはいなかった。
「隠れてるのか……?」
 そう言えば、飽きるまで憑くと言っていた。
 まさか、もう飽きたから、いなくなったのか?
「嘘……俺、まだ願いごとを……」
 孝樹は、朝食もそこそこに、家を飛び出した。
 初めて出会った場所、神社にならいるかも知れないと思い、急いだ。
「願いごとも叶えて貰ってないんだ……!」
 加奈を助けるには、カムイの力が必要で不可欠。
 それが例え自分の命と引き換えだとしても、カムイの力が必要なんだ。
 それなのに、まだ何の願いも叶えて貰ってないのに、これではあんまりだ。
 ハァハァと息を切らして辿り着いた神社。
 十月故の微かに冷たい空気を一身に受けながら、賽銭箱の前に立った。
「カムイ……いるんだろ!?」
 孝樹の声が神社に響いた。
「隠れてないで、出てこいよ!」
 何度も何度もカムイの名を叫んだが、神社には孝樹以外に人影はない。
「いい加減にしろよ! ふざけてるのか!?」
 いつもなら、古風な口調で、ひょいと出てくるのが、今日に限ってはない。
「冗談だろ……? カムイ……出てきてよ。お願いだから……」
 孝樹が賽銭箱の前で崩れた時だ。
 パチッと、背後に音がした。
「……カムイ!?」
 孝樹は、カムイかも知れないと思い、振り返った。
 が、そこには野良猫が一匹だけ。
 おそらくは、野良猫が落ちている木の枝を折ったのだろう。
「カムイ……」
 カムイの名を吐露する。
 だが、幾らカムイの名を洩らそうとも、出てくる気配はない。
 それどころか、あの日と同じように雨。
 ゴッゴッと地面を殴った。
 軽く血が滲んだが、不思議と痛みは感じない。
「クソッ……クソッ……」
 悔しかった。無力な自分が悔しい。
 神様の力を頼ること以外に為す術が無い自分に苛立ちを覚える。
「うわあぁぁ……っ」
 早朝の、まだ誰もいない神社で、孝樹の叫び声が響き渡った。
 何でだよ。何で、黙っていなくなるんだよ。
 加奈を助けられるなんて、酷い思わせぶりじゃないか。
 本当は助けられないのなら、最初からそうだとハッキリ言えよ。
 こんなんじゃ、酷過ぎる。
 大体、最初から変だったんだ。
 少ないお賽銭で願いごとが叶えられるなんて。出来過ぎなぐらいに、都合が良過ぎたんだ。
 願いは叶わない。加奈も助けられない。加奈は死ぬ。
「加奈……ごめん。俺、助けられないよ……」
 神社からの帰り道は、とても長かった。
 自宅まで徒歩でも十分程だが、この日はその何倍にも感じられた。
「朝早くにどこに行ってたの!?」
 母親、京子の声。
「別に……」
「それにずぶ濡れじゃないの!」
「別に……何でもない」
「何でもないということ無いでしょ!?」
 煩いな。煩いよ。何なんだよ。
 何も知らない癖に。俺がどれだけ悩んだのか、知らない癖に。
「……さい……」
「何ですって!?」
「煩い! 煩い、煩い、煩い!」
「なっ……何ですか、お母さんに向かって!」
「カムイも、母ちゃんも、皆……皆、大嫌いだ!」
 言って、孝樹は自室に鍵をかけ閉じ篭ってしまった。
 もう信じない。誰も信じるもんか。
 神様だって、カムイだって。
 結局、口先だけなんだ。弄ぶんだ。
 良い言葉は良いことを招く? だから何なんだよ。
 どれだけ綺麗な言葉を並べたって、結果は変わらないんだろ。
 ズキン、ズキンと、手が痛み出す。
 何でこんなにも痛いのだろう。
 何でこんなに傷づいてるのだろう。
 ああ、そっか。この痛みは、生きてることの痛みなんだ。
 だから、血が滲んでるし、軽く腫れてもいるんだよ。
 カムイは言った。
 生きることは痛みを伴うって。
 痛みを感じるのは生きているからだって。
 死んでしまえば、痛みは感じなくなるって。
 仮に、それが本当だとしたら。
 神様は、カムイはどうなのだろう。カムイも、同じように痛みを感じるのだろうか。
「もしも……まだいるなら、教えてよ……」
 結局、俺はどうしたかった?
 自分の命を対価にしても、加奈を助けたいの?
 そりゃ死にたくはないし、死なずに済むのならそうしたい。
 良い言葉は良いことを招くと言われても、これのどこか良いことなんだ。
 それとも、悪い言葉を使ったから、その戒めとして今があるのか?
 分からない。分からないよ。
 何が分からないのかも、分からない。
 でも、一つだけ分かってることがあるよ。
 加奈は遠くない未来に死んでしまうこと。時間が尽きてしまうこと。
 そうなれば、このだだっ広い部屋も自分一人だけになる。
 それは、それだけは嫌だ。

 もしも、もしも――もしもは、この世界にはない。

♪ ♪ ♪

 ――十一月。秋。
 教室の窓辺から入る陽射しと、肌を刺す冷たい空気。
 加奈が日常からいなくなって、三ヶ月目になろうとしている。
「えー……次は瀬戸君、お願いします」
 担任の男性教師の声。
「……」
「瀬戸君?」
「……え? あ、はい」
「次の箇所を読んで下さい」
「えっと、何所ですか?」
「今は歴史の時間で、神話について勉強しています」
「……はぁ」
「日本に古くから伝わる神様についての箇所です。お願いします」
 歴史の教科書に記された文献を読み進めると、途中で声が止まった。
「あ……」
「どうしましたか? 瀬戸君」
「これ……この神様って……?」
 そこには、神威(カムイ)と記載されている。
「ああ、この神威――カムイは、高位の霊的な存在とされています」
「高位の……存在?」
「カムイは、あらゆるモノに宿り、恩恵や災厄を齎します」
 孝樹は自分の耳を疑った。
 カムイは、つい最近まで自分と一緒にいたものの名前だったからだ。
 まさか、そのカムイの名を歴史の授業で聞くことになるなんて。
「先生、カムイは……カムイのことをもっと教えて下さい」
「残念ながら、先生もカムイについてはあまり多くは知らないんです」
 放課後、孝樹は学校にある図書室で文献を読み漁った。
 カムイは、人間と対等の位置に存在し、世界はそんなカムイと人間――アイヌにより成立している。
「そっか……だからなんだ……」
 孝樹は、初めてカムイの残した言葉の意味を理解した。
 人間とカムイは平衡しているからこそ、世界もバランスを保てられる。
 でも、その片方がもう片方を侵食するようなことがあれば、瞬く間に世界のバランスは崩れ、そこに綻びが生じてしまう。本来なら生きられる者を死なせれば、その者に続くとされていた者も消滅して、在るべき形が失くなる。
「俺……本当にバカだ……」
 バカもバカ、大バカだ。
 あんなにも、カムイは訴えていたいのに。
 その言葉の意味するところを理解しないで、無理なことばかりを求めた。
 それはカムイによれば、悪い言葉になるのだろう。
 傲慢に慢心。
 カムイは、自分の許から離れてしまった。飽きたからじゃなくて、呆れたからだ。
 カムイの言葉を理解していれば。
 後悔は先に立たず。
 不思議と、涙が零れた。
 その日の帰り道、足取りは重かった。
 きっと、カムイにはもう会えない。
 仮に再会できたとしても、願いことは言えない。
 けれど、このまま加奈の死を見届けるなんてこともできない。
「どうすりゃ良いんだよ……」
 自宅。リビングを抜け自室。相変わらず、だだっ広い部屋。
 ランドセルを勉強机の前に放り投げると、ベッドに横たわった。
 こうしている間にも加奈の容態は悪化していく。
 分かっているのに、今の自分には為す術がない。
 時間が戻るなら、戻せるのなら、カムイと別れる前に戻りたい。

 カムイを恋しく思ったその日の夜。
 加奈の容態が急変したと、連絡が入った。

 意識はない。
 とても危険な状態だった。

 最初、加奈を見た時、感情が壊れたのかと思えるぐらいに声が出なかった。
 普通なら出る泣き言も、弱音も、何もかもが出てこない。
 まるで、壊れた人形。
 カタカタカタと操られても、心がないから感情も表せない。
 心は、何処かへと失くしてしまった。それを思うと、胸の辺りがズキンと痛んだ。
 心音も妙に高鳴って、聞こえてきそうだ。
「……加奈……?」
 絞り出した声。当然だが、呼びかけに反応はない。
 意識を取り戻すかどうかは奇跡でも起きない限り、ないらしい。
 加奈から伸びているのかと錯覚するように、点滴のチューブや心電図といったコードが繋がっている。それらが、加奈をどうにかこの世界に繋ぎ止めていると物語るようで。
 あらゆる機器の力で加奈は死の淵、その手前で止まっている。
 無理矢理にでも生かされているという状態だ。計器類の音も、心電図の波形も、拍子抜けする程にゆったりしている。テレビドラマと違って、やたらと煩いということもない。
 静かに、ただただ静かにピッピッピッと響いている様は、妙にリアルだった。
 担当医は、
「意識が戻らなければ覚悟して下さい」
 と言っていた。
 つまり、意識が戻らなければ、そのまま死ぬということもある。
「何で……何でこんな……」
 独白に近い形で声が鳴る。
 死ぬ。加奈が、死んでしまう。十一年と少ししか生きていないのに、それが終わってしまう。
 両親は、病室の外で担当医と話し合っている。
 あまりにも病室が静かだったから、声が嫌でも聴こえてくる。
 あと、どれだけ生きられるのか。あと、何ヶ月保つのか。余命は何年か、何ヶ月か。
 耳を塞いでしまいたいことまで聞こえてくる。見たくないことまで見えてしまう。
 加奈は、永くない。両親を含めた大人は口を揃えている。
 カムイの言った通り、遠くない内に死ぬ。
 避けて通るには、願いを叶えて貰うしかない。
 加奈は、そんな自分の置かれている状況を知る由もなく眠り続けている。
 何て、なんて哀れなんだろう。
 まだ、死んでもいないのに。まだ、生きているのに。ここにいるのに。
 廻りは、死んでしまうことを前提として話をしている。
 孝樹が加奈の手に触れた時だった。

「――たーくん……」

 か細い声が、静寂さの中で一際目立つように響いた。
「……え?」
「……たーくん……?」
「加奈!?」
 加奈が意識を取り戻した。万に一つの奇跡だった。
 一生懸命に、孝樹を呼んでいる。
 医師からは、大変に危険な状態と言われていた加奈が、懸命に孝樹を呼んでいる。
 瞳を動かして孝樹の存在を確かめると、安心したかのように、表情が穏やかになった。
「……私……夢を見てた……」
「……夢?」
「……うん。不思議な……温かい夢……」
 加奈は話す。そこは、お花が沢山咲いている場所だった。
 春なのだろうか、とても暖かくて、優しくもなれる。
 そこには、金木犀が咲いているのに、秋桜が咲いていたり。ひまわりがあったと思えば、水仙があったり。
 夏なのか、冬なのか、春なのか、秋なのか。
 煌びやかな雪も降っているけれど、その雪はほのかに温かい。
 近くには何処からか川が流れていて、その川を挟んで多くの人が手を振っている。そこには、お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも、親戚の小父さんも小母さんもいた。
 皆、死んでしまった人達だ。
 白い服を着て、生前と変わらない姿をしている。
「……お祖母ちゃん達に、会ったの……」
「何か、言ってた……?」
「……うん。まだ、駄目だよって……」
 優しく諭すように。
 人間は、死に逝く前に臨死体験をすると聞いたことがある。
 まだ、駄目というのは、天国に来るのはまだ早いという意味だろう。
「……それでね……私の名前を呼ぶ声が小さく聞こえたの……」
 お祖母ちゃん達のいる場所に行こうとしたら聞こえた。
 切なくなるような、胸が締めつけられるような悲痛な声。限りなく小さいのに、耳許で聞こえた。
「……たーくんの……声だよ……?」
「俺の……声?」
「あれは、たーくんの声だった……」
 聞き間違えるはずのない孝樹の声。
 いつも「たーくん」と呼べば、返事をしてくれる。
「……ありがとね……たーくん……。もしも、声が聞こえなかったら……私……向こうに行ってたかも……」
「向こう……って?」
「お祖母ちゃん達のところ……。きっと、行ったら戻れない……」
 それを聞いた瞬間、それまで流れなかった涙がひとしずく零れた。
 ゆっくりと頬を伝うものがポタッと落ちて、孝樹の足許を濡らす。
「たーくん……泣いてるの……?」
「ば、バカ……泣く訳…………泣く……わけ……」
 泣きたくなんてないのに、涙が止まらない。
 それまでの緊張の糸が解れたように孝樹は泣いた。それを見て、加奈も釣られるように涙した。
 守られてばかりで、助けられてばかりで。誰かの支えになることも、誰かの力になることもできない。
 毎日のように薬を呑んで、点滴を腕に刺して。
 入院初日目から多くの検査を受けた。その中で、自分だけ日常から取り残されてしまうようだった。
 別の世界にいるような、そんな感覚。
 だって、この日常は私のいるべき日常じゃないから。これは非日常で、何処にもリアルはない。
 毎日、不安感ばかりが募って、一人で死の恐怖に耐える日々。
 楽しいことを考えようにも、死んでしまうことに思考が呑まれてしまう。
 生きることがこんなにも難しいなんて。
 神様――私を自由にして下さい。
 そう心の中で願った時。
 パチッと、何かを閉じる音が聴こえた。
 何だろう、今の音。
 私にだけ聴こえた不思議な音。懐かしい薫りも漂って、それまでの不安感が和らいだ。
「……たーくん、今の音……何だろ?」
「……音?」
「…………やっぱり、何でもない。気のせいかも……」

♪ ♪ ♪

 あの日、告知を受けた加奈は何を思ったのだろう。
 あの日、告知を受けてから、加奈は何を考えたのだろう。
 死んでしまうと知らされて、それでも、生きたいと思ったのだろうか。
 生きる為にはどうすれば良いのか、考えただろうか。
 仮に、自分が同じ状態に、境遇になったら、何を思い、何を考える?
 生きること、死すること。
 生きていくこと、死んでゆくこと。
 その狭間で見えるものは、一体、何なの。
 加奈にとって、孝樹は双子の兄であると同時に――大切な存在だ。
 唯一の兄妹だからこそ、片方が欠けることはありえないことだった。
 加奈が入院を余儀なくした時でさえ、大事件だった。
 病院。母親も私に付きっ切り。
 休みの日には、たーくんもお父さんもお見舞いに来てくれる。
 そのお陰で淋しさは軽くなったけれど、その分だけ辛さは増えた。
 自分の所為で不自由をさせて、病気の所為で負担を強いる。
 それが、無性に申し訳なかった。辛いから哀しくもなった。
 こんなにも哀しいから、心も虚ろ虚ろになってしまったの。
 心配も負担もかけたくない。病院にもいたくない。此処には、もういたくない。
 ここは、この場所は、とても嫌だ。
 たーくんと、お母さんと、お父さんと、また一緒にいたい。
 一緒にいたい、いたいのになぁ。
 私だけなんで、なんで一緒にいられないのだろう。
 哀しい笑顔がここにあって、淋しい表情がそこにあって。
 その二つの間には、切なくなるような眼差しが見え隠れして。
 その眼差しの向かう先は、いつだって――。
 いつだって、ひどく愛おしいものなんだ。だから、優しくもなれるんだ。
 分かってる。その優しさに応えるのができないことぐらい。
 受けてばかりで、与えられないことも。
 皆、自分なんかの為に時間を使ってくれる。
 できるだけ、笑っていたいと思うのに、陰ってしまう。
 夜。消灯時間を過ぎすると、死を考えさせられる。それまで無縁だったものが、ジワリジワリと忍び寄ってくる。
 明日への光は、どこにあるの?
 未来への道は、どこで途絶えてしまったの?

 ――十二月。冬。
 街中に一足早くクリスマスソングが流れる頃、加奈は、心臓移植のドナーを見つける為、国内でも有力な病院へと転院することになった。日本でも数えるぐらいしかない移植手術を行える病院で、技術者も多く在席している。ドナーも見つかり易く、すぐに手術を受けられる。
「――今日で、瀬戸孝樹君ともお別れです」
 学校。加奈の転院を機に、孝樹も転校することになった。
「今まで、ありがとうございました」
 突然の転校に、多くのクラスメイトが驚いている。
 放課後。孝樹は真っ直ぐ家には帰らず、神社へ向かった。
 どんな形で別れたにしろ、最後ぐらいはきちんと挨拶をしたかった。
 賽銭箱に、あの日に拾ったお金を投げ入れた。
「残念だけど、小遣いは、これだけしかないんだ……」
 手を合わせ、祈りを捧げる。
 思い返せば、此処の神社でカムイに会ったんだよな。
 五ヶ月しか経っていないのに、随分と時間が経ったように感じる。
「願いごとは、変わらない。今も、これからも……」
 加奈の病気を治したい。その為なら、命だって投げ出すかも知れない。
「――じゃあな。カムイ」
 新しい学校生活は、とてもじゃないが楽しいものじゃなかった。
 比較的、田舎だった場所から転入してきた。
 田舎者ということで、転入初日目から虐めの対象になった。
「おい、田舎者!」
「文句があるなら、やり返してみろ!」 「此処は、お前みたいな奴が来るところじゃないんだよ!」
 誹謗中傷の数々、陰湿な言葉責め。それに勝る数多の暴力。
 髪の毛を鷲掴みにされることも、体操服にカラースプレーで落書きされることもある。
 それでも、孝樹はやり返すことも、文句を言うこともなかった。
 何か問題でも起こせば、ただでさえ加奈のことで手一杯なのに、要らぬ心配をかけてしまう。
 だから、孝樹は黙したまま耐え続けた。
「我慢だ……加奈に比べれば……このぐらい……」
 以前、加奈は言った。自分の所為で不自由してるよね、と。
 このぐらい不自由でも何でもない、と今なら言える。加奈の病気に比べれば、不自由の内に入らない。
 加奈は、最悪のケースも十分にある。虐めなんて、飽きさえすればいつかはなくなる。
 今は、まだ面白くて辞められない。それだけだ。
「――たーくん?」
 孝樹の名前を呼ぶ声がした。自分を「たーくん」と呼ぶのは、加奈以外にはいないはずだ。
 加奈は今も入院している。なら、誰が名前を呼んでいるのだろう。
「……誰?」
「あ……あの、学級委員長の千秋です」
「……は?」
「あの、大丈夫かな、と思って……」
 何が大丈夫なのか分からない孝樹は、「何が?」と疑問系だ。
「えっと、虐めとか」
 虐めと聞いて、「別に」と孝樹は短く答えた。
 虐めで苦しいと思ったことがない訳じゃないけれど。ただ、その苦しみも加奈の明日死ぬかも知れない苦しみに比べれば、何でもなかった。
 所詮、虐めだ。そういう考えが根底にある。
「悪いけど、俺、用事あるから。それと、その呼び方は辞めてくれ……」
 加奈以外に、たーくんと呼ばれるのが嫌だった。気持ち悪いという訳じゃないけれど、何か面白くない。
「たーくん? あのね」
「その呼び方は……」
「でも……たーくん!」
「いい加減にしろよ。何なんだよ!?」
「……どうして、虐めのこと、何も言わないの?」
「関係ないだろ……」
「関係あるよ……私、学級委員長だから……困ってるなら助けたいの」
「なら、加奈を助けてみろよ……」
 突き放すように言葉を紡いだ。
 助けるなんて言葉ほど軽いものはない。助けられるのなら、加奈を助けてみろよ。
「加奈さんって、入院してる妹さん……のこと?」
「…………な、何で知ってるの?」
「先生から聞いたの。学級委員長だから、困った時は助けてあげてって……」
「……余計なお世話だよ……それと、その呼び方は辞めてくれ」
 たーくんと呼んで良いのは、加奈だけだ。
「それじゃあ……」
 次の日も千秋と呼ばれる少女は、孝樹に関わろうとした。
 授業の時間にも、給食の時間にも、積極的に関わろうとする。
 放課後に孝樹が一人、洗面所で落書きされた体操服を洗っている時もだ。
「……何してるんだ?」
「だって、たーくん一人じゃ大変だろうし」
「……いい加減、その呼び方は辞めろって……怒るぞ?」
「どうして、何も言わないの? 先生も私も、何か助けができるならって――」
「助ける……ねぇ。だったら、虐めてる奴の家にでも行って、虐めを辞めろって言い回ってみたら?」
 助けるなんて、所詮はできないことなんだ。綺麗事なら何とでも言える。偽善者は要らない。
「……分かった。言い回れば、良いんだね」
 夜。自宅に何本も電話がかかった。何れも虐めをしていた生徒の親からのものだ。
 その電話の所為で結局は両親にも虐めのことがバレてしまい、迷惑をかけてしまった。どうせ迷惑がかかるのなら、自分の口から言いたかった。
 翌日から孝樹への虐めはなくなった。千秋が「虐めは駄目」と言い回ったからだ。虐めていたグループも、興が冷めたのか孝樹に見向きもしなくなった。目を合わせても小さく会釈するだけで、すぐに何処かへ消えてしまう。
「なぁ……お前……本当に言い回ったのか?」
「うん」
「……何でそんなことができるの?」
「困ってる人がいたら、助けるのが当たり前でしょ?」
 孝樹は深く溜め息を吐いた。
「……一応、ありがとな……」
 その日から、千秋との奇妙な関係が続くことになる。
 千秋には孝明と呼ばれる一歳年の離れた弟がいた。
 たーくんという愛称の孝明は、いつも虐められており、居場所がなかった。
 虐められているのに、そのことを悟られないよう、家では何も話さない。迷惑がかかると思うからこそ、いつも元気なフリをし続けた。
 学校は楽しい。友達も沢山いる。それが口癖だった。
 そんな孝明も、一年前に死んでしまう。
 自殺だった。かも知れない。団地のベランダの柵から誤って落ちた。記録では、事故死となっている。
 が、千秋は自殺だと思っていた。
 ベランダの柵から落ちたのだって、幾らなんでも不自然過ぎる。危険だと分からない年齢でもないし、意図的に乗り越えたとした思えない。
「……で、俺をその弟と重ねてると? 悪いけど、俺は弟じゃない」
「……………………分かってる……」
「じゃあ、どうしてさ? どうして、俺なんかに関わるの?」
「……放っておけないの……弟を助けられなかったから……」
 千秋は、弟の死後、ずっと悔み続けた。
 虐めに気づいてさえいれば弟も死ななくてすんだのではないか。死んでしまう前にその様子に気づいていれば、或いは、自殺を防げたかも知れない。
 どれだけ悔んでも悔みきれないし、どれだけ省みても弟は帰ってこない。お姉ちゃんと慕ってくれることも、名前を呼んでくれることも二度とない。
 弟の死後、千秋は学級委員長や生徒会に積極的に立候補して、虐めを減らす為に活動してきた。結果は哀しいかな、あまりないけれど、途中で投げ出すこともできない。
 孝樹が虐められているのだって見て見ぬフリはできなかったし、何とかしてあげたいと思った。例え、どんなに「関係ない」と言われても、同じ過ちを繰り返したくない。
 それを聞いて孝樹は、「虐めぐらいで死ぬ訳ない」と思った。
 虐めで死ぬぐらいなら、相手を殴り飛ばすよ。
「私……」
 千秋の言葉を遮るように、ゴーンゴーンとチャイムが鳴った。
「悪い。俺、行くところがあるから……」
「もしかして……妹さんのところ?」
「…………まぁ、ね」
「私も……ついて行っても良い?」
「……はぁ!? それこそ関係ないじゃん」
「私達、もう友達でしょ?」
 はぁと孝樹は溜め息を吐いて、いつの間に友達になったんだと詰め寄った。
 だが、それも、「学級委員長だから」と、押し切られてしまう。
「――加奈」「――加奈ちゃん」
 同時に声が鳴った。
「……たーくん…………あれ? その人は?」
「ああ、こいつは同じクラスで学級委員長の――」
「友達の千秋です。初めまして」
 加奈が小さな声で「彼女?」と訊いたが、孝樹は真っ向から否定した。転入早々に彼女ができるなんて、どんなプレイボーイだよ。
「こいつは勝手について来ただけで、友達でも何でもない」
「じゃあ、どうしているの……?」
「それは……学級委員長だからとしか言えないけど……」
「どうして……?」
「えっと、その……どうしてだろ……」
「……私に訊かれても分かんないよ……?」
 孝樹と佐奈の会話を遮るように、千秋が間に入った。
「そう言えば、加奈ちゃんも同じ学校なんだよね?」
「……え?」
「あれ? 違うの?」
「……同じ学校だけど……私は通えない……」
 千秋が「どうして?」と訊ねると「病気だから……」と加奈は短く答えた。
「でも、すぐに治って通えるようになるよね?」
「…………」
「加奈ちゃんは、何の病気なの?」
 千秋は、担任の教師から詳しいことまでは訊いていない。ただ、入院しているということしか知らない。
「まぁ……でもさ、すぐに退院できるよ」
「そう……だと良いなぁ」
 退院する時は、きっと死んでしまった時だ。と加奈は思う。病院からは出られない。仮に出られたとしても、自由にはなれない。傷を負ったかごの中の小鳥のように空を羽ばたくことも、かごから出ることもできない。
 かごは病院、小鳥は私。傷は――病気。
 一生懸命に治そうとしても、どんどん弱っていくだけ。
 その内、かごの中でも動けなくなって、いつかは死んでしまう。
 加奈の表情が暗くなる。
 それを見ていた孝樹は、「千秋……ちょっと良いか?」と千秋に声をかけた。
「良いから、ちょっと来い」
 病室の外、談話室で孝樹は言った。
「加奈の病気は……治らないんだ……」
「……治らない……?」
「俺も難しいことは分からないけど、心臓病で移植以外に治らないんだ……」
 それを聞いて、千秋は絶句した。
「だから……その、何つーか、えっと……」
「……ごめん」
 千秋は、自分の言った言葉がどれだけ無責任かを知った。すぐに治るとか、学校に通えるとか、退院できるとか。幾らなんでも失礼過ぎた。
 加奈は、治らない病気だと告知を受けている。知らなかったとはいえ、加奈の心を傷つけてしまった。
「……私……学級委員長失格だね……」
 困ってる人を助けたい。その思いが強過ぎて空回り。こんなんじゃ、学級委員長としても、何より人としても駄目だ。
「……今日は、帰るね……」
 病院からの帰り道、千秋は思い廻らせた。
 移植以外に治らない病気を患った加奈、それを見守ることしかできない孝樹。
 死んでしまう恐怖に耐えている加奈、いなくなる淋しさを覚悟している孝樹。
 その二人に自分ができることって何だろう。自分は家族でもないし、親戚でもない。
 友達と言ったって、形だけの崩れ易いもの。でも、何もせずに見ているだけというのも嫌だった。
 なら、自分に何ができるのだろう。答えは――身近に転がっていた。
 例え、病気が治らなくても。死んでしまうことを避けられなくても。支えてあげることができるなら、友達としてできることがある。
 翌日の放課後、千秋は加奈のいる病室へと来ていた。
「……何で、千秋がいる訳?」
「だって私、加奈ちゃんとたーくんの友達でしょ?」
「いつから友達になったんだ? いつから」
「今日、ついさっき」
 はぁと溜め息が洩れた。
 こいつは、本当にただのバカかも知れない。困ってる人を助けたいとか、何かしてあげたいとか。
 お節介を通り越して、呆れてくる。けど、ありがとう。友達だと、そう言ってくれて。

♪ ♪ ♪

 学校の下駄箱には、相変わらず、加奈のだけがない。
 転入してからも加奈は入院を余儀なくして、学校には一度も通えていない。教室にある加奈の机には、当然だが誰も座っていない。
 放課後、何処からか名前を呼ぶ声が聴こえる。
「――たーくん」
「いい加減、その呼び方は辞めれって」
「良いじゃない。友達なんだし」
 そこには、千秋がいる。
「それでね、私……考えたの。募金を集めたらどうだろうって」
「募金? 何で?」
「私、聞いたよ? 費用のこととか、凄くかかるって」
 そう言えば、手術費用とか結構な額がかかるんだっけ。一応、今は国内で様子見をしているけれど、最悪、国外に行くことだってある。そうなれば、費用も上がるし、それこそ自分達だけでは払えない。
「少しでも加奈ちゃんの為になるなら、私も協力したい」
「その気持ちだけで嬉しいよ。けど、迷惑はかけられない……」
「迷惑なんて……そんなことを思ってるの?」
「……そうじゃないけど……」
「じゃあ、決まり。私、先生にも相談してくるね」
 千秋と交流を持つようになって、ペースを握られっ放しだ。別に不満という訳ではないけれど、調子が崩れるというか。
 翌週になる頃には許可も取って、学校だけはでなく街中でも募金活動ができるようになった。
 前にカムイは言った。良い言葉は良いことを招き、悪い言葉は悪いことを招くと。今なら、その言葉の意味がよく分かるような気がするよ。
 募金活動は、クラスメイトも協力してくれて、少しずつだけど集まり出した。最初は数円程度だったのが、数千円、数万円と上がっていった。
「募金の途中経過です」
 言って、担任の男性教師が募金の途中経過を聞かせた。
「二百万円前後、集まりました」
 一人一円を募金したとしても、二百万人。それだけの人が、加奈の病気を治したいと協力してくれている。
「ありがとう……ございます」
 純粋に嬉しかった。小さな、限りなく小さな命を助ける為に力を貸してくれる。
 それを思うと、不思議と涙も零れた。透明で、優しい結晶。ひとしずくのカケラ。
「――加奈」
「たーくん。どうしたの?」
「報告したいことがあるんだ」
 孝樹は、募金活動していることを話した。皆が力を合わせていること。加奈の病気を治そうと協力してくれていること。
「クラスメイトだけじゃない。沢山の人が力を貸してくれてるんだ」
 加奈は、顔を両手で覆った。嬉しくて、哀しくて、辛くて。
 皆が私の為に頑張ってくれている。それだけで優しくもなれる。丸くて、まるい気持ち。
「私……生きても良いのかなぁ?」
「当たり前じゃん。必ず、元気になるんだよ」
「……私ね……私、いつも死んじゃうことばかり考えてたの……」
 今までの思いを告白した。
 加奈は、告知を受けてからというもの、死ぬことばかりを考えていた。毎日のように弱まっていく身体だから、いつかはその役割を終えてしまうと。
 死を考えるのも、意識するのも必然だった。死んでしまう命だからと、多くを望まなかった。
 それなのに、廻りの皆は生かそうとしてくれる。それがとても申し訳なかった。
 恩に報いることができない現実と想いに応えられない事実。病気じゃなければ、諦めることもなかった。
 負担ばかり強いる自分には、存在価値なんてないと思い込んでいた。それ故、早くこんな日常を終わらせて欲しいと神様に願った。
 それなのに、何度願っても、そんな日は来なかった。寧ろ、願う度にある感情が湧き起こってしまう。
 ――生きていたい。死にたくない。死んでしまう。生きられない。
「私……怖い、怖いよぉ……っ」
 初めて入院をした時は、すぐに退院できると思った。けれど、死んでしまうかも知れないと告知を受けてしまった。
 最初は、そんな死がイメージできなかった。でも、聞き慣れない薬や検査を受ける度に、イメージができてしまう。
 生きることは、こんなにも辛いことの連続で、死んでしまうことは、こんなにも呆気ない。
 助けて欲しいと懇願しても、誰にもどうすることができない。薬も延命にしかならないし、できても症状を和らげる程度だけ。
 転院したことで、いよいよ自分の最期だと悟らせられた。死の足音が聴こえてくるようだった。
 彷徨える魂はどこにあるか。そう囁きながら。
「助けて……たーくん……助けて……」
 生まれて初めてだよ。こんなにも助けて欲しいと願ったのは。私は生きたい。生きられるのなら、生きていたい。
「加奈……っ」
 それを聞いて孝樹は、今まで以上に加奈を助けたいと思った。
 この世界にもしもなんてのはない、とカムイは言った。確かにその通りなのだろう。
 人が思い描くことは、全て現実になり得ることなのだから。
 死んでしまうことを意識することで死がやってくるのなら。助かることを描いたら、助かるのかも知れない。
 自分の命で加奈が助かるのなら、加奈と共に生きられる道があるのなら。
 どうすれば良いのだろう。どうしたら良いのだろう。
 加奈が病気になった時、非情な運命を呪ったこともあった。
 祈りなんてものに意味も価値もなくて、呪いにばかり終始した。それでも、助けて欲しいと加奈は言った。
 そんな加奈に自分は何がしてあげられるのだろう。カムイがいたなら、きっと願っただろう。
 これは、捨てるんじゃない。生かす為に使うんだ。
 一緒に生きていけるような命の使い方。カムイ――こんな我儘は駄目ですか?

♪ ♪ ♪

 ――六月。梅雨を迎えてすぐ。
 加奈の容態は、日に日に悪くなっていく。心臓の機能も更に弱くなって、死が着実にやってくるようだ。
「残念ですが――予想以上に進行が早く、長くて八月までだと思われます」
 それが加奈に残された時間だった。
「それまでにドナーが見つかれば、或いは間に合うかも知れません」
 どうにもならない現実がそこにあった。それまで薬の力で何とか時間を延ばしてきた。
 途中で何度危険になっても、誤魔化すことができていた。それも終わる。
 いつだったか、入院してから加奈が願っていたことがある。
 それは、時間が欲しいというもの。残されている時間が少ないからこそ、一分でも一秒でも時間が欲しい。
 命も分けて欲しい。少しだけで良いから、時間を。
 お昼時。病室には、加奈の両親がいる。確かに家族の声がするのに、霞んでしまって見えない。
 身体には力も入らなくて、瞳を動かすだけで精一杯。もうすぐ、私は死んじゃうんだ。
 そのことを知っていたのは、お父さんとお母さんだけ。きっと、たーくんも千秋ちゃんも知らない。
 ああ、会いたいな。たーくん、どこにいるの?
 千秋ちゃん。こんな私でも友達になってくれてありがとう。
 お父さん、お母さん。いつも一緒にいてくれて嬉しかった。
 私は死んじゃう。死にたくないぁ。死にたくないよぉ。
 それなのに、死んじゃう。やりたいことも、したいことも、沢山あったのに。
 何で……なんで私なんだろう。何か悪い事をしたから、罰が当たったのかなぁ。
 なら、罰って何なんだろう。ああ、悔しいよ。

「――加奈」

 私の名前を呼ぶ声が聴こえる。聞き間違えることのない優しい声。
「遅れてごめん。千羽鶴に時間がかかってさ」
「……千羽鶴……?」
「折鶴を千羽折ると、どんな病気も治るんだ。加奈の病気だって……」
「……ごめん、ね。たーくん。私……もう……」
 孝樹は、加奈の手を握り答えた。
「そんなことない。奇跡は……起こるんだ……っ」
 それから間もなくして、加奈は眠りに落ちた。
「――加奈が起きる頃には……きっと、元気になってるから」
 一面に草花が生えている。この夢は、前にも一度だけ見たことのある夢だ。
 お祖母ちゃんもお祖父ちゃんもいて、とても温かい。そっか。私、死んじゃったんだね。
「――加奈!」
「……え? たーくん!?」
 遠くて近い場所で、孝樹の声が鳴った。しっかりと、加奈の名前を呼んでいる。
「どうして、たーくんがいるの?」
「俺は、いつも一緒だからさ……」
「……?」
「ずっと傍にいるから……」
「何を言ってるの……?」
 孝樹は、後悔のないような笑みを浮かべている。
「それだけを伝えたかったんだ……」
「待ってよ……たーくん……」
「じゃあ……な」
 孝樹は後ろに振り返り、白装束の人が集まっている場所へと歩き出した。
 それを見て、突然、加奈は哀しくなった。
「行っちゃ嫌ッ!」
 追いかけようとすると、パチッという音と共に白粉の薫りが辺りを支配した。
 刹那、ふわりと舞い降りるように美しい女性が現れた。
「――此処から先は、死人(しびと)の領域じゃ。まかり通ることはならぬ」
「でも……!」
「御主は生かされた。その命を無駄にするつもりか?」
 言葉が出なかった。
「加奈……!」
「……たーくん……」
「俺は、生きてるから。だから……だから……」
 孝樹は、それ以上は何も言えなかった。言えば、声に出してしまえば、泣き出してしまいそうで。
「俺の分も、大人になれよな……!」
「……うん。……うん……」
「じゃあな、加奈!」
「バイバイ……たーくんっ」
 再びパチッと音がすると、加奈は眠りから目覚めた。
 胸の辺りに、小さな痛みが感じられる。その痛みは、確かに生きているということの痛みだ。
 両親が加奈に起こったことの一部始終を言って聞かせた。
「加奈……実はね……」
 加奈は、心臓の移植手術を受けた。心臓が役割を終える前に、ドナーが見つかったのだ。
 交通事故によって脳死判定を受けたドナーは、その両親の承諾の許、心臓を提供した。血液型も、細胞も、あらゆるものが殆ど同じの心臓を加奈は貰った。

 ――その日、孝樹は千秋と一緒に病院を目指していた。
「千羽鶴、何とか間に合ったな」
「加奈ちゃん、喜んでくれると良いね」
 千羽鶴を両手に抱えて、交差点で長い信号待ちをしている時だ。恐らくは居眠り運転だったのだろう。そのトラックは孝樹と千秋の二人を襲った。
 その異変にいち早く気づいた孝樹は、千秋を庇うようにして車に轢かれた。
 無意識だった。別に守りたいとか、庇いたいとか、そんなことを考えた訳じゃない。
 ただ、身体が咄嗟に動いてしまったんだ。
 トラックの荷台に積まれていた物資の数々が不幸にも孝樹の頭に強打した。
 不思議と痛みはなかった。寧ろ、身体がふわふわと浮いているような感じを受けた。
 次第に四肢の感覚もなくなって、声も遠退いていった。苦しいということはないけれど、視界が霞んで、狭まっていく。
 たーくんという千秋の叫び声も上手く聞き取れなかった。でも、パチッとすると音だけは聴こえた。
 どれだけの時間が経ったのかも、自分の置かれている状況も分からない。
 ああ、ちくしょう。身体が動かないし、手足も動いてくれない。
 暗くなっていく視界の中で、孝樹は一人の名を呼んだ。
 ――カムイ。
 直感的に、カムイがいると思った。何より、白粉のような薫りが漂っていたから。
 願いを……想いを届けて。
 俺は、死ぬ。あの日から、ずっと考えてきた。
 誰にも教えてもらえないから、自分で答えを見つけてきた。
 自分の命で加奈が助かるのなら。お願いだ。お願いします。
 俺の最初で最後の願いごとを叶えて欲しい。加奈を――助けて下さい。
 パチッと何かを閉じる音がした。
「――その願い、叶えましょう」

 ――そして。

 救急車が程なくして到着すると、孝樹は加奈のいる病院へと運ばれた。意識はなく、脳死判定を受けるのも時間の問題だった。
 孝樹の両親は酷く錯乱し、何故自分達にばかり不幸が落ちるのかを呪った。だから、ドナーとして移植に心臓を使うと言われた時も納得できなかった。
 でも、命には換えられない。目の前に助かる命があるのに、見過ごす訳にはいかない。
 そこで、両親は苦渋の決断として孝樹の心臓を使うことに承諾した。
 孝樹の頭以外は奇跡的にも無傷で、ドナーになる為の適合チェックは全てクリアだった。
 加奈の心臓移植に使われたのは孝樹の心臓だ。元々、双子だった為、拒絶反応もあまりない。
 何処までが夢だったのか。何処からが夢の終わりだったのか。千羽鶴を孝樹が持ってきた時点で、加奈は夢を見ていた。
 加奈は、涙しなかった。泣かなかった。いつまでも泣いていたら、孝樹も安心できないと思ったから。
 孝樹は自分に命を託した。時間をくれた。未来の道を作ってくれた。
 なら、自分にできることが何なのか見えてくる。私は――生きたい。生きていたい。
「それでね、加奈。孝樹は……」
 母親が辛そうに話している。 「知ってる……。さっきまで一緒だったから」
 孝樹は生きている。自分の中でこれからも、ずっと。
「ありがと……たーくん」
 数日後には、千秋がお見舞いに来た。
「……加奈ちゃん」
 千秋がとても哀しそうな表情で加奈を見ている。
「どうしたの……? 千秋ちゃん」
「だって……私を庇った所為で、たーくんは……」
「事故のこと……?」
 加奈は、事故のことも、心臓のことも聞かされている。当然、千秋を庇う為に孝樹が死んでしまったことも聞いている。
 千秋は、自分を責めていた。自分を庇ったばかりに、孝樹は死んでしまった。時間が巻き戻るのなら、事故になる前に戻って欲しい。
「きっと、たーくんは恨んでないよ」
「……え?」
「たーくん、言ってたの。ずっと一緒だって」
「たーくんが……?」
「うん。それでね、たーくん……笑ってたの。だから、千秋ちゃんも笑って……?」
 孝樹は笑っていた。後悔なんてないかのように。きっと、救いを見て天国に旅立ったに違いない。
 今でも耳から離れない。名前を呼んでくれる優しい声。
「それにね、いつまでも哀しんでたら、たーくんに失礼だよ」
 未来を託されたのだから、過去にばかり固執してはいけない。昨日でも今日でもない。明日を生きていかなければ。
 孝樹は自分の中で生きている。ずっと、いつまでも生きているんだ。
 ならば、自分にできることが何なのか見えてくる。生きて、生かして。塞ぎ込んで未来を閉ざしたら、それこそ申し訳ないよ。
「そう……だね。たーくんの為にも……生きなきゃだね」
「うんっ」

♪ ♪ ♪

 半年後の十二月の凛とした冷たい風に、空から舞い落ちる雪。
 哀しみを募らせる世界にあっても、涙を流さない者達がいる。
 加奈と千秋は、孝樹のお葬式の日にも泣かなかった。
 泣けば、孝樹が旅立てないと思ったから。心配だってかけてしまうだろう。
 けど、大丈夫。孝樹の遺影は、幸せそうに笑っている。
 たーくんと呼べば、名前を呼んでくれる。
 その度に、「その呼び方は辞めれ」って言うんだ。
 たーくん、ずっと、いつまでも忘れないから。
 たーくん、大好きだよ。だから、お休みなさい。
 いつか、私もそっちに遊びにいくから。その日まで、どうか安らかに――ありがとう、たーくん。
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